夜明けを待つ



 これから住むワンルームの部屋に、荷物を全部運び入れる。母が、これでもか、というくらいに、窓を磨いている。
「お母さん、もう、それくらいでいいよ」
 私は、そう声をかけた。実際、窓はもう、曇り一点もない。
「そうお?でも、なにか、まだ、汚れてる気がするのよねえ」
 母は、手を止め、窓ガラスを眺める。
「それより、早く帰らないと、電車なくなっちゃうよ」
「そうねぇ」
 大学に無事進学し、今日から私はこの部屋で念願の一人暮らしだ。
 何をしても、誰に文句を言われる事がない。それを考えると、うきうきしてくる。
 だから、実を言うと、母には、早く帰って欲しかったのだ。そして、早く、一人の自由と解放感に身を任せたかった。
「じゃ、お母さん、もう帰るわ。くれぐれも、戸締まりには気を付けて。あと、あんまり夜遅くまで出歩いちゃ駄目よ」
「大丈夫、大丈夫だってば」
 母は、まだ何事か言いたそうだったが、私は、その背中を押さんばかりの勢いで、母を見送る。
「じゃあね、お母さんも、気を付けて帰ってね」

 初めての一人暮らしの夜。私は、近所のコンビニで酒類を買い、冷蔵庫で冷やしている間に、お風呂に入る事にした。
 そうだ、今度、良い香りのする、バスオイルを買ってこよう。
 浴槽に湯を溜めつつ、シャワーを浴びる。
 すると、足元から、ごぼ、ごぼごぼっ、という音が聞こえた。何だろう?
 視線を落とすと、音の元は、排水溝であった。
 ごぼごぼごぼ……。という音に合わせ、一度吸い込まれた湯が、またわき上がってくる。
「やだなあ、詰まってる」
 私は眉をひそめ、排水溝の蓋を上げた。
「うわっ、何これぇ」
 そこには、びっしりと、黒い髪が詰まっていた。もちろん、私の物であるわけがない。
 前の人がきちんと掃除をして出ていかなかったのだろうか。だとしても、管理人が責任を持って、清掃しておくべきだ。
 私は、大慌てでシャワーを止め、浴室から出て、ゴム手袋と、小さなゴミ袋を持って来た。
 他人の髪の毛なんて、汚いし、気持ち悪いが、片づけるのは、自分しかいないのだ。
 これも、一人暮らしのつらい所か。仕方ない。ため息をつきながら、それを片づけた。

「て、いう訳でさぁ。初日っから嫌な思いしちゃったよ」
 私は、缶ビールを片手に、浴室での出来事を、友人の絵里に携帯で話した。
『へえ〜、やだなあ。それ、大家さんに、文句言った方が良くない?』
「そうだよねぇ。前に住んでいたのが、どんなヤツだったのかも、ついでに聞いちゃおうかな」
『前に住んでた人?そうねえ、遠い遠い所へ、行っちゃったよぉ』
 突然、絵里の声が低くなる。
「は?何言ってんの」
 喋っている内容もおかしかったので、私は問い返した。
『だから。あの子を連れたまま、もう、帰って来ないんだよぅ』
 絵里の声は、ますます低くなる。まるでスロー再生のような。
『帰って、来たいんだよう、本当はぁ…あぁ……』
「絵里?絵里、どしたの?」
 気が付けば、蛍光灯を点けている筈の室内は暗くなっている。暗すぎる。周りの物がなにも見えない。
 おかしい。おかしいよ。
 ………

 カラスの鳴き声が聞こえる。私はそれで、目が覚めた。カラスが鳴いているという事は、もう朝なのだろう。部屋の中が暗いのは、防犯の為にと母が取り付けた、遮光カーテンのせいだ。
「あれ、いつ、寝たんだろう」
 私は、パジャマのまま、床に寝転がっていた。のろのろと起きあがり、カーテンを開けるため、窓に近づく。
 こん、と、足に何か当たり、それが倒れ、中から液体がこぼれてきた。
 缶ビールだ。
「わ、やっちゃった」
 私は、手探りで箱ティッシュを探す。やっと探りあて、とりあえず、大まかに拭く。
 それから、やっとカーテンを開ける。
 部屋が明るくなって、私は、携帯にビールがかかってしまっているのを見た。
「うそ〜!」
 携帯をティッシュで拭きながら、そう言えば、昨日は絵里と話していたんだっけ、と思い出した。
 途中で、絵里の言っている事がおかしかったが、それは、もう、私が眠っていたせいだろう。
 謝っておかなくちゃ。
 私は、絵里の携帯に電話をかけようとし、画面を見たが、そこには、何も映っていなかった。
「ええっ、もしかして、壊れちゃった?サイッテ〜!」
 頭にきても、一人なので、怒りの行き所がない。
 新しい携帯を買いに行こう。そしてついでに、大家さんの所に寄って、昨日の、排水溝の件を言って来よう。
 私は、むかむかしながら、出かける準備にとりかかった。

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