薬売り



 

・・・軟膏ひと貝いらんかね・・・・
 透き通った飴のような橙色の空が広がり、人家からは焼き魚、味噌汁、夕飯の匂いが流れてくる。
太陽の光を浴びなくなったせいでくすんだ色の路を、その男は長い影をひきずり、ゴム底が半分剥がれた右側の靴をぺたん、ぺたんと鳴らしながら歩いていた。陽に焼けた顔には深い皺が刻まれ、白目は黄色く濁っており、深くかぶったすり切れた帽子の奥から上目使いにあたりを覗き込んでいる。
   ・・・軟膏ひと貝いらんかね・・・・
 人気の消えた公園の脇に、きつい目をした小さな女の子が立っていた。彼女は左手の甲をさすっていた。
「おや、可愛いお嬢さん、その手はどうしたね?」
「猫が引っ掻いた」
「ほう、そうかい。それでは特別に、この軟膏をただで塗ってさしあげようか、哀れなお嬢さん」
 少女は当然のように男に左手を無言で差し出し、軟膏を塗らせた。
「それで、その猫はどうしたね、惨めなお嬢さん」
「腹が立ったので、踏んだら死んだ」
「そうか、死んだか。死んだのか」
 それだけ言うと、男はまた、長い影を引きずり、ぺたん、ぺたんと去って行く。
 後には、ただ路の埃臭さが残るだけ。少女の手の甲が、ひくりと蠢く。
 突起があらわれそこに二つの鼻腔が形成され、ひくひくと動く度、その横から伸びだした数本の毛がぴくぴく震え、上部にできた二つのへこみが眼窩だと気付くが早いか緑色にきらりと光り、そうかと思うと下部はぱっくりと裂け、中に肉色の牙が生えたのち、「ミャオウ」と鳴いた。
 ぺたん、ぺたん、ぺたん
・・・・・軟膏ひと貝いらんかね・・・・・


                                 END

 

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