クッキーの崩れる音


 

 石畳の路を、僕は走る。薄っぺらな靴底は、石の堅さを直に足に伝える。一足一足の衝撃は膝まで響く。
 普段は人通りの多いこの路も、今は、誰もいない。
 いや、正確には、僕の半径30メートルくらいは、誰もいない。
 その無人の半径は、じわじわと狭まっているだろう。
 そりゃあそうだ。僕の体力は無尽蔵じゃないし、そんな僕なんかより、あいつらは体力があるだろう。おそらく、訓練もしているのだろうし。
 追いつめられる。
 追いつめられる。
 僕はもう、逃げているのか、追われる事を楽しんでいるのかわからない。
 あまりの息の苦しさに、もう可笑しくて笑いたくなってくる。だけれど、笑おうとした僕の唇からは、涎が垂れそうになるだけだった。
 もう何も考えるな。逃げ道だとか、後ろの事とか。前だけ。ただ、前に進むだけ。今できる限りの全速力で。
 どうすればもっと速度があがるかな。色んな走り方を試してみようか。
 大股で走る?すり足で走る?体勢は高く?低く?頭をぐぐっと下げてみたらどうだろう。
 どんな事をしたってもう、疲労が溜まっていく一方だ。
 地面を見れば、石畳がどんどん後方に行くものだから、ちょっとは早く走っているような気になっているだけだ。
 これ以上、早く走るのは諦めよう。
 僕は顔を上げた。
 そこには、古く立派な造りのアパルトマンが見えた。
 よく見れば、左右に小径はあったのかもしれない。でも、僕の脳裏には、行き止まりとしか思い浮かばなかった。
 アパルトマンの卵色の壁は、僕に問いかけてくる。
 さあ、立ち止まるのかい?それともまだ、走るのかい?
 立ち止まったら、ちょっとは楽なのかな。もう、よくわかんないや。
 わからないから、も少し、走ってみる事にしよう。
 ほら、丁度よく、壁にロープがぶら下がってるしさぁ。
 2階の窓の外の柵に、括り付けられてぶら下がってるロープ。きっと、洗濯物を干すのに使っていたのが、片方千切れてしまったのだろう。
 届くかな。届け。
 1階の窓の桟によじ登り、手を伸ばす。僕の右手は、しっかりとロープを握った。
 さあ、登れ、登れ。
 背後から、喧噪が近づく。その音は僕の背中を引っ張り、そしてまた、押したりもする。
 おとなしく降伏せよと、喧噪は怒鳴る。
 強化アクリル板の楯と、「ポリッツァ」の黒い文字が入った防護服に身を固めた団体。
 ああ。小銃は構えないでよ。不公平だろ、僕はもう、そんな物とっくの昔に路の隅っこに投げ捨てたのに。
 逃げるな。おとなしく、降伏しろ。
 そんなに、選択を急がせないで。せめて、登り切ってからにして。
 僕の手は、2階の窓の柵を掴んだ。窓ガラス越しに、小さな子供を抱いている若い母親が見えた。
 そうやって、僕も抱いてもらっていたんだろうな、きっと。
 遠い遠い昔すぎて、覚えちゃいないんだ。
 無条件に愛された事なんて、覚えちゃいないんだ。
 僕はただ、知りたかっただけなんだ。
 そうやって、愛されているのかどうかを。
 良い学歴だとか、業績だとか、そういうんじゃなく、ただ単に、「僕」を愛しているのかどうかを。どんな事をしても、僕は僕だから。
 だから、「僕」を愛してくれているかどうか、試したかっただけなんだ。
 どんな事をしても、僕を愛してくれているかどうか。
 ねぇ、ただ、それだけなんだよ。
 僕が引いたトリガーで、銀行や学校にいたたくさんの人の血が流れたのは。
 ねぇ、言ってよ。
 それでも僕を愛していると。
 僕が、市役所の中の人達を的にしたのも、空港に集まる観光客を穴だらけにしたのも。
 その言葉が、聞きたかっただけ。その言葉が、聞けるかどうか、知りたかった、試したかった、それだけ。
 1本の垂れ下がったロープにぶら下がったのは、もう、僕だけじゃなかったようだ。
 僕の襟首を、合皮手袋に包まれた指が掴んで、引っ張る。
 そんなに強い力じゃなかったのかもしれない。
 だけど僕にはもう、しがみついている力は残っていなくて。
 いや、残っていたにしろ、僕は手を離しただろうな。
 僕の手から遠ざかっていく、所々錆びた茶色い柵が目に映る。
 2階の窓から地上までなんてそんなに距離はないはずなんだ。
 なのに、どうしてだろう。ゆっくりゆっくり、時間は流れる。
 幼い頃を思い返してしまうほど。
 クッキーの匂い。甘い、クッキーの匂い。
 あの頃、母はよく作ってくれた。
『さあ、これを、運んで頂戴』
 焼きたてのクッキーが入った深皿は、僕に手渡される。
 だけど、幼すぎる僕は、うまく持つ事ができなかったんだ。
 皿が傾いて、ざらり、と中身が床に落ちる。
 僕は驚いて動く。どうやら一歩前へ出てしまったようで、床に散らばったクッキーを踏みつけてしまうのだ。
 くしゃ。
 クッキーの、砕ける音。
『あらあら、何やってるのよ、あなた』
 母は、笑う。靴下を、クッキーの粉だらけにしてしまった僕を見て。クッキーの屑がばらまかれたキッチンの床を拭きながら、彼女は笑う。
 ねぇ、どうしてだろうね、今、その事を思い出すなんて。
 ねぇ、どうしてだろうね。
 堅い石畳に打ち付けられた僕の頭蓋骨が発する音は、あの時の、クッキーの砕ける音と、同じに聞こえるなんて。
 同じに、ね。
        くしゃ、って、ね。

                               END

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