首地蔵


 


 9月始めの日曜日。やっと朝晩は涼しくなってきたが、昼間の日射しは未だ衰えない。
「あ、つ、い」
 美沙都は愛用しているバーバリーのガーゼハンカチで額、鼻、鼻の下を順繰りに押さえて汗を吸わせる。
 見上げれば青空に薄い筋雲。目の前に広がる砂利引きの農道。両脇には枯渇して数年が経過したと思われる水田。
「あつい、あつい、あつい、あつい」
 足を踏み出すのと同じリズムで繰り返しているのは、美沙都ではない。美沙都と同じ写真部に籍を置く陽一だ。
「ちょっと、うるさい」
「あつい、あつい、あついんだったらあついんだ」
「あんたが暑苦しい」
 じろりと陽一を睨んで一喝。暑い暑いとぐずぐず言ったところで、気温が下がるはずもない。そりゃあ、口に出せば少しは気が紛れるのかもしれないが、あいにく美沙都には陽一とこの苦しみを分かち合い共に堪え忍ぼうという気持ちはなかった。それなら一人で堪え忍んだ方が幾分マシだ。
 何より今現在、陽一と同じ道路を歩いていることそのものが気に入らない。お調子者で悪ふざけが大好き、いつだって誰かと喋っていなければ気が済まないような煩い男。美沙都が一番嫌いなタイプだ。
「ねぇねぇお前さ、冷たいとかとっつきにくいとか言われるだろ」
 言われたことが無いと言えば嘘になるが、それを直接訊いてくるような不躾な人間を温かく迎え入れるような気にはならない。
 しかし陽一は悪いことを訊いたつもりはないのだろう、あっけらかんとした表情をしている。彼にとっては、「お前今日の弁当何?」と同じくらいのレベルの質問だったのだろう。
「黙ってて。被写体を探すのに集中できないから」
「俺は喋ってないと集中できないんだよなぁ」
 いいから黙れ。と言うかわりに美沙都は無言を貫いた。
 今日は来たる学校祭で開催する写真展に出す作品を撮るためにここまで来たのだ。部員はめいめい自分の好きな場所に行って写真を撮ること、と命じられ、美沙都は、日本の失われつつある風景を撮りたいと思い、近隣にある廃村へ赴くことに決めた。ダムの建設が決まり住民が全て転居した後、建設計画が立ち消えとなり、そのまま廃れていった村だ。
 前日の部活で、それぞれどこに行くかを報告したのだが、美沙都がこの廃村の名を告げた直後、陽一がはいっと勢いよく挙手して「俺もそこ行きます」と言いやがった。
 いやぁお前と気が合うとは思わなかった、俺も撮りたかったんだよ、廃墟を。
 そう言われた瞬間、美沙都にとって「ちょっと苦手な男子」だった陽一は、「大嫌いな男子」に変貌した。
 美沙都は自分がフィルムに収めたものを通して、この国が忘れ去ろうとしている大事なものは何か、という問題提起をする作品を作るつもりだった。
 興味本位で廃墟を見てみたいという軽い気持ちと一緒にして欲しくなどなかった。
 だから、こんな男と一緒に行動なんて本当はしたくなかったのだが、「同じ場所に行く者は極力同行するように」と顧問から命ぜられてしまったのだ。
 農道はやがて村道にT字に突き当たり、美沙都たちはきょろきょろと左右を見比べる。
 村道の路肩は腰以上もある雑草に覆われていた。藪蚊の心配をしなければならない。
「あ、あれ廃校じゃね?」
 陽一が指さす右方向には、確かに小学校か中学校だったのではないかと思われる木造の建物がひっそりと建っていた。その奥にはまばらに民家の跡も見える。
「あっちに行った方が被写体に出会えそうね」
「廃墟だ廃墟」
 うきうきした口調の陽一は腰に下げたカメラバッグから愛用の一眼レフを取り出しそのストラップを首にかけた。
 その様子に冷たい視線を投げかけつつ(しかし陽一はそれに気付かなかった)美沙都も自分のカメラを首にかける。
 壁の木材が半分ほど剥がれ落ちた校舎の前に立つ校門の門柱はもはや朽ち木と変わらない状態であったが、辛うじて「小学校」という文字が読めた。
「これで理科室にホルマリン漬けとかが残されていたら最高の被写体だよな」
 またしても不快な台詞をのたまいながら陽一が無遠慮に敷地内に入っていく。
「ちっとも最高なんかじゃない」
 そう呟きつつ美沙都は陽一の背中から目を逸らす。すると視界に入ってきたのは、最早手入れもされていないグラウンド。柱だけになったブランコ、取り外されて支柱の傍らに横倒しに積み上げられたのぼり棒。そういった、取り残された遊具がぽつぽつと立っている。電池の切れたロボットが主人に捨てられた後もなお、そこで主人を待ち続けているみたいだ、と、SFじみた想像が去来する。
 そこへ、がたぴしと派手な音が響く。
「何してんのよ」
 見れば、陽一が校舎の入り口扉に甲虫のように張り付いている。
「いや、開かないんだよこの入り口」
「当然鍵がかかっているんでしょ」
「なんとかして入れないかな」
「私先に行ってるわね」
 付き合いきれないとばかりに美沙都は歩を進めることにした。
 小学校の敷地が終わる辺りまでくると、郵便ポストを一基、発見する。
 現在よく見かける四角形のものではない、円柱状の古風な形のものだ。風雨にさらされて赤の塗料があちこち剥がれている。投函口がガムテープのようなもので塞がれていた跡がある。後ろに回ってみると、取り出し口の鍵が壊れて半開きになっていた。
 そうっと指の先で取り出し口の扉を大きく開き中をのぞき見る。
 薄暗い中に、白い封筒がぼんやりと見えた。
 なんだろう、回収忘れだろうか、そんなことあり得るのだろうか。
 美沙都は手を伸ばし土や埃で汚れた封筒を取り出す。糊は風化していて最早その役目を果たしておらず、よって美沙都は難なく封筒を開けることができた。
 折り目がセピア色に変色し、少しでも乱暴に扱えば破れてしまいそうな便せんを慎重に広げる。
 おそらく、子供の字だ。「はやくもどってこれますように」。
 ああ、この子は、村に戻って来たかったんだ、そして村に戻って来られる日が来ると信じていたんだと美沙都は思った。おそらく、廃村になった後にここまで来て、手紙を投函したに違いない。
 小学生の男の子が転居先からこの場所まで、懸命に自転車を漕いでこの封筒を投函する姿を、美沙都は思い描いた。
 切ない気持ちが胸に広がる。
 美沙都は手紙を自分の鞄にしまうと、カメラを構え、ファインダー越しにポストを見つめながら後退し被写体から適切な距離をとった。
 角度を変えて何度かシャッターを下ろす。
 一通り撮り終え気持ちが一段落したところで、別の被写体を探すことにした。
 陽一はどうしただろう。うまく校舎に入れたのか、それともまだ外周をうろうろしているのか。
 どちらにしろ、はぐれるわけにもいかない。小学校からあまり離れないように、近場に良い被写体がないか探すことにしよう。
 美沙都はゆっくり歩きつつ視線をあちらこちらに走らせる。
 すると道の端に、背の高い雑草に埋もれそうになっている小さなモニュメントのようなものを見つけた。
 美沙都はモニュメント様のものに近づきその正体を確かめようとする。
 しかし、美沙都の背の高さほどもあるそれは、「石柱状の何か」、としか言いようがなかった。表面に模様が彫られているが風化がひどいのだ。
 美沙都が中学校にあがる頃まで住んでいた家の傍にも、こういったモニュメントがあった。
 開町50周年記念、と書かれていた記憶がある。しかしそれは、住民たちからは道路の縁石同然としか認識されていなかった。そこにあるのは識っているけれど気にかける必要は無い。
 あの記念碑も、いつの日か今目の前にあるモニュメントのように置き去られてしまうのだろうか?
 美沙都は半ば無意識にカメラを構え、シャッターに指をかける。
「わぁっ」
「きゃあっ」
 美沙都の指は悲鳴と共にシャッターを押しきった。
 陽一が奇声をあげながらモニュメントの後ろからにょっきりと首だけを出してきたのだ。
「びびった?びびった?お前でもびびることあるのな」
 喉の奥で笑いを殺しながら陽一がモニュメントの陰から出てくる。
「………何してるのよ」
 驚きの表情から無表情に意向しながら、低い声で美沙都が問う。
「いやぁ、結局さぁ、あの学校入れなかったんだよ。つまんねーから、隠れて先回りしてみよっかなって思って」
 陽一は顎で道の脇の草むらを指す。どうやら身をかがめて草に隠れ、先回りしたらしい。
「でもさ、お前、良い被写体見つけたよな。首の無い地蔵なんて、廃墟感たっぷりじゃん」
「首……の無い、地蔵?」
 美沙都は眉をひそめた。
 何かのモニュメントとしか思っていなかった石柱。よく見れば、底部に向かって服の裾のように少し広がっている。足下の台座は蓮の花に見えなくもない。その手前に、供物台らしきものまであった。なぜ気付かなかったのだろう。確かにこれは、首の無い地蔵だ。首部分は、風化とともに崩れ去ってしまったのだろうか。
 開町記念碑のことを思い出してしまったから、それ以外のものである可能性を考えようともしなかったのかもしれない。
 とすれば陽一は先ほど、地蔵の丁度首の無い部分に自分の首を乗っけてみたということか。なるほど、陽一らしい悪ふざけだ。
「残念ながら、私の求めている被写体はもっと違うものよ」
 美沙都は陽一を一瞥すると踵を返して道の奥へ歩みを進める。
「なんだよ、びびらせたの怒ってんの?」
 陽一はざくざくと砂利を踏みながら美沙都を追いかけてきた。

 結局、美沙都は「ダム建設予定地」と書かれた看板と、不要品を置いたまま空き家となった家屋を幾つか撮影し、陽一は、「廃病院とかの方が良かったな」と文句を言いながら何かの事業の空き事務所を撮影し、2人とももっと良い被写体があれば良かったと落胆しながら廃村を後にした。

 週明けの部活では、早速、日曜に撮った写真を現像、そして印画することになっていた。
 作業は理科準備室に暗幕を張った即席の暗室で行う。月曜日には数人ずつのローテーションでフィルムの現像作業。翌日火曜日から金曜日までは、1人ずつ入れ替わりで暗室に入り印画作業を行う。
 美沙都に印画作業の順番が回ってきたのは、木曜日の2番目。
 暗室に入る前に、どの写真を印画しようかとフィルムを蛍光灯の光に翳して眺める。
 あのポストの写真を拾った手紙と一緒に展示するのも良い。ダムの建設予定地付近の写真も、看板の後ろに広がる荒涼とした風景が何かを訴えかけているようで良い出来になりそうだ。
 そして。
 忌々しくも陽一が悪ふざけを仕掛けた写真。
 ネガを見ても、しっかりと、地蔵の肩の上に陽一の首が載っかっている。
 この腹立たしさを級友の1人に話したところ、彼女は物好きにもその写真がどうしても欲しいと言った。
 陽一に好意を持っていること、そしてそんな悪ふざけも彼らしくて良いとする彼女の悪趣味には参ったが、どうしてもと懇願されて、美沙都はその写真も印画することにした。
 暗室の中、小さな豆電球のもと、美沙都は作業を開始する。
 印画するネガを引き延ばし機にセットし、電球を点けてネガの画像を投影する。引き延ばし機のツマミを調節して、投影された画像のピントと大きさを合わせていく。納得のいく画像になったら、一度暗室内の明かりを全て消して、注意深く印画紙をセットする。
 再び、引き延ばし機の電球を点けて印画紙に画像を投影する。今回はわざと投影時間を長めにして、コントラストのはっきりした写真にしようと思う。
 1枚目のポストの写真を印画し終わると、ピンセットで印画紙を持ち上げ、薬液に浸ける。これもほんの少しの時間の差で、出来上がりに大きく影響するのだから緊張する。
 薬液に浸け終わった印画紙を乾燥させるために、暗室に張られた麻縄に洗濯ばさみを用いて吊し、次の写真に取りかかる。
 次は。
 例の、地蔵の写真。
 一気にやる気がなくなる。これは適当でいいや、と思いつつ美沙都は引き延ばし機に例のネガをセットし、画像を投影した。
「え……?」
 まだピントが粗いからなのか?
 陽一の姿が、顔が、首が見あたらない。
 確かに地蔵の姿はあるのに。
 いくらピントが合っていないからといって、地蔵の姿は見えるのに、陽一の姿が見えないなんて、あり得るのだろうか?ネガにはきちんと陽一の姿が焼き付けられているのに。
 引き延ばし機の電球の熱でじわりと汗が滲む。美沙都はツマミを調節し続ける。
 地蔵の肩の上を凝視しどんなにツマミを回しても、そこに陽一の首は表れなかった。
 その他の、地蔵やその後ろの草花、手前の砂利も、供え物の台もはっきりと見えるのに。
 先ほど、ネガに映っていた陽一の姿は、美沙都の見間違いだったのかもしれない。
 確かに、シャッターを押すと同時に、そこに陽一がいたはずだが、もしかしたら、若干タイミングがずれて、シャッターが降りたのは陽一が顔を出す前だったのかもしれない。
「なんだ、プリントする意味ないじゃん」
 それでも一応印画して、クラスメイトに「失敗していた」と言って見せることにしよう。美沙都が意地悪をして陽一の写真を渡さなかったと思われては困る。
 その時なぜか、美沙都はもう一度ネガを確認することを思いつかなかった。

 印画作業を終えた美沙都は暗室を出ると、汗ばむ顔を手で扇ぎながら2部屋先にある部室に向かう。部室では、手の空いた者が文化祭に向けて室内を展示室風に設営しているところだろう。
 美沙都が部屋の引き戸に手を伸ばしかけた時、室内から、何か重量のある金属製の物がどこかに叩き付けられるような音が聞こえてきた。それと同時に、複数人の悲鳴。
 何事かと、美沙都は急いで戸を開く。
 部員達は皆、窓際の一角を向いていた。
「どうしたの」
 美沙都の問いは、各々の怒声にかき消された。誰かが泣き出し、別の誰かが救急車を呼ぶよう指示していた。
 美沙都が騒ぎの輪の中に入っていくと、その先に、倒れた脚立と、その下にいる陽一が見えた。
 リノリウムの床に、赤黒い液体が妙にゆっくりと広がっていった。

 顧問の先生が付き添って、陽一は病院へ搬送された。
 部員達は一様に不安げな顔でそれを見送り、この日の部活はそれで終了になった。
 自宅に帰っても陽一の容態が気になり、美沙都は部員の何人かと連絡をとってみたものの、誰も何も知らされていない様子であった。
 翌日登校後に知ることになるのだが、この時既に彼の身体は生命活動を維持していなかった。圧迫による頸椎骨折、及び、脳内出血。救命措置は行われたものの、ほぼ即死であったらしい。

 文化祭自体は開催されるが、写真部は作品展を開くことを取りやめた。誰も作品展を開くような気持ちになれなかったから、反対する者もいなかった。
 部活もひと月ほど活動を休止することになった。
 暗室に写真やフィルムを置いたままにしている者は速やかに回収するように、との伝達がなされ、美沙都は授業の合間の空き時間に1人で暗室を訪れ、吊されたままになっている自分の写真を見た。
 陽一と歩いた場所の写真。
 そう思うと、胸がぎゅっと苦しくなる。
 大嫌いな奴だったけれど、それでも。多くの時間を共有した部活仲間であることに変わりはない。その死を悼まないはずはない。
 陽一が悪ふざけをした地蔵の写真を美沙都は手にとった。
 この後ろに、悪戯をしかけようと待ちかまえている、笑顔の陽一がいたはずなのだ。
 美沙都は、じっとその写真を見つめ、そして、自身で制御できない叫び声をあげた。
 頭蓋の内部を殴られたみたいに目眩がした。
 体の芯は冷え切り強烈な寒気が襲ってきたにもかかわらず、体表には余すところ無く汗が噴き出す。
 地蔵の足下にある供物台。そこに載っているものこそ、陽一の首だったのだ。
 悪ふざけの笑顔ではなく、虚ろな半目で開いた口からは舌の先がちろりと見えるその様子は、死の瞬間の彼はまさにこんな顔だったのだろうと嫌でも想像させられた。
 美沙都はたまらず暗室から逃げ出した。

 写真は逃げ出す時にどこかに落としてしまったらしい。無論、探し出す気持ちもない。
 きっとあれは自分の見間違いだったのだと何度も自分に言い聞かせ、さりとて本当に見間違いだったのかどうか確かめる勇気もなく、じっくりと見ないようにしながらネガを油性ペンでぐいぐいと塗りつぶして近くの神社の境内にこっそり埋めた。
 そしてその後、美沙都は写真を撮らなくなった。




                                 END

 

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