抜魔師、見参す

 昼休みの理科室。
 廊下や校庭からは、授業から解放された生徒達の活き活きとしたざわめきが聞こえる。
 だが、ここにいる生徒達は、声をあげず、じっと息をひそめていた。部屋の中央を不安げに見つめて。
 そこには、木の椅子にぐったりした様子で座っている女生徒。脚はだらしなく開き、両膝の間に、だらんと腕を下げている。傾いた頭、半開きの口。顔にかかった前髪のせいで、その瞳がどこを見ているのかはわからない。しかし、目の焦点は合っていないだろうと、誰もが想像できた。
 そして、その傍らに、学生服のボタンを中程まで開けた少年が立っている。その首には、麻紐で括られた小瓶が2つぶら下がっており、小瓶の中には、水が満たされていた。
「ねえ、加奈子は大丈夫なの?」
 2人を取り巻いている生徒の1人が、眉根に皺を寄せ、悲壮な面持ちで少年に尋ねる。
 少年は、自信に満ちた表情でしっかりと頷く。
「もちろん。まだ取り憑かれて間がないからね。すぐに抜魔できる。みんながすぐに気が付いて、僕に知らせてくれたおかげだよ」
 取り巻いていた少女達に、安堵の色が広がる。しかし、まだ、眉はひそめたままだ。
「良かった。早く……早く加奈子を助けてあげて」
 少年は再び頷くと、軽く片手をあげ、少女達に静かにするよう促す。少女達は、それに従い身じろぎもしない。
 少年は、一つ大きく息をつくと、胸元で揺れている小瓶の1つを首から外す。そして、コルクの栓を抜く。
「聖職者が浄めし水よ、三沢加奈子の体に巣くう悪魔を抜き去れ」
 少年の声が理科室に響く。
「抜魔師(ばつまし)吾妻清志の命(めい)の元、悪魔よ、消え去れ!」
 それと共に、少年は小瓶を持つ手を大きく振るう。小瓶の中の水が、窓からの光を受けて煌めきながら、椅子に座った少女、加奈子に降りかかった。
 しぃん、と理科室内は静かになり、皆が加奈子の様子を窺った。
 ぱたり、ぱたりと、彼女の髪から、水滴が落ちる。
 ぽつん……と、おそらく最後の一滴が膝に落ちると、彼女は、はっとして顔を上げる。
「あ、あれ?あたし、どうしたの?」
 その目の色は、確かに、正気のものであった。
 女生徒達から、ほうっと安堵の息が漏れる。
「か、加奈子ぉ〜」
「良かった、良かったよぉ!」
「もう〜、心配したのよ」
 少女達は加奈子に駆け寄り、頭を撫でたり抱きついたりする。当の加奈子だけが、きょとんとした表情でそれを受け止めていた。
 その様子を横で見ていた少年は、満足げな笑みでうんうんと頷く。
「それじゃ、みんな、後で代金よろしくね」


 少年の名は、吾妻清志。先程、理科室で本人がそう名乗っていたから、もう1度紹介するまでもなかったか。
 一見、ごく普通の高校生。けれど、訳あって校内のちょっとした有名人。その理由も、敢えて説明しなくても、もう予測はつくだろう。
(今日もまたひと仕事しちゃった。収入収入♪)
 窓から暑いくらいの陽光を取り込む廊下を、清志は意気揚々と、鼻歌でも歌いそうな勢いで歩いていた。その胸の上には、空の小瓶が踊っている。
「ちょっと吾妻。あんた、またあくどい商売やったの」
 彼の背後から、そんな声がかかった。少し低めの少女の声。清志には聞き覚えがある、この声は。
「おう、内山」
 清志はクラスメイトの女子の名を呼びながら、立ち止まって振り返る。
 そこには、2人の女生徒の姿。どうやら、昼休みのひととき、2人で廊下にてお喋りを楽しんでいたらしい。
「唯子」
 清志に声をかけた内山唯子を、もう1人の少女がたしなめる。
 こちらは、同じクラスでは無いため、清志とあまり交流はないが、名前と顔は知っていた。唯子とは部活仲間であるらしい、江崎京香。真っ直ぐで艶やかな長い髪が印象的な少女だ。
「『あくどい』なんて、人聞き悪いよなぁ」
 唯子にそう言いつつも、清志の視線は京香に引き寄せられる。
(やっぱり可愛いよなぁ、江崎って)
 一言二言言いたそうな唯子を困ったような表情で見つめる、そんな京香も、清志にとっては眼福であった。
「そう?あたしの言ってること、間違ってないと思うけど?」
 京香の制止もきかず、唯子は清志に正対し、きつい口調で詰め寄る。
「なにが悪魔よ。バッカじゃないの?あんたがそんな事言ってるから、学校中で『取り憑かれちゃった〜』なんて騒ぐ子が増えんのよ。そんな事あるわけないでしょ」
「あ〜、もしかして、内山、俺の言うこと信じてないの?」
 そんな唯子に動じる風もなく、清志は応じる。
「当っっ然でしょ!」
「随分鼻息が荒いこと」
「ハっ、ハナ……っ!」
 唯子は真っ赤になる。その後ろで、京香がおろおろしていた。
「ふぅ〜ん、なるほど」
 清志は、ちょっと意地悪そうな笑みになって、唯子を指差す。
「あのさ。『悪魔に取り憑かれるなんて信じない』って言ってる人には、2通りいるんだ。本当に信じていない人と、本当は信じているけれど、恐れるあまりにそれを認めたくないって人とね」
「な、何よ」
 頬の紅潮が収まらないままの顔で、唯子は清志を睨む。
「べっつに〜ぃ。ま、内山サンはねぇ、本当に信じていないもの、ね〜ぇ」
 清志は、指を引っ込めて、くるりと彼女達に背を向ける。
「ま、信じる信じないは人の自由なんだから、あれこれ言わないでくれる?じゃっ」
 後ろ向きのまま手を振って、清志はその場を立ち去った。
 廊下に、午後の授業の予鈴が響いた。その音で、唯子の呟きは、誰の耳にも、すぐ傍にいた京香の耳にも届かなかった。
「そうなのよねぇ。恐れるあまりに、ねぇぇ……」
「……唯子?」
 京香が唯子の顔を覗き込む。彼女の表情が、薄く笑っていたような気がしたから。
 しかし、京香に声をかけられた途端、唯子は普段の彼女に戻った。
「え?何よ、京香」
「ううん。何でも。私達も、そろそろ教室戻ろっか」
 京香は慌てて首を振った。


 午後の授業は、教室内にまったりとした空気が滞っているようだ。
 更に、退屈な事で有名な先生の授業ともなれば、手紙を書き始める者あり、こっそりメールを打つ者あり、もちろん居眠りしている者も大勢いる。
 きちんと授業を聞いている者は、おそらく1人いるかいないかだろう。
 清志にしたって、そんなに不真面目な生徒ではないが、やはり睡魔が襲ってくる。それでも、一応、授業を聞こうという努力はしていたのだが、ふいに、がくんと頭が下がる。
 カツン。コン。
 首から下げた2つの小瓶が机にぶつかる音で、清志は意識を取り戻す。
 はっとして身を起こし、それから、先程音を立てた小瓶に目をやる。
(あ、そうだ。中身、空のままだったな)
 昼休みに理科室で使用した小瓶を掌に乗せ、軽く転がした。
(それにしてもさっきは、いろいろ言ってくれたなぁ)
 清志は、前方の席に座っている唯子の背中をじっと見る。
 彼女は最早睡魔にその身を乗っ取られてしまっているのか、くらりくらりと上体を揺らしている。すると、突然、椅子を大きく鳴らして唯子は立ち上がった。
 彼女が寝ていたとばかり思っていた清志も、教師も、かろうじて起きていた他のクラスメイトも驚いて一斉に彼女を見る。
 一同の視線を集めている事に気づいた唯子は、ゆっくりと周囲を見回し、それから。
「頭、痛い……」
 それだけ言うと、ふらふらと教室を出ていった。
 突然の出来事に、誰もがそれを見送るだけだった。が、その言動から、単に具合が悪かったのだろうと判断した。
「1人で行けるな?保健室」
 教師が、唯子の出て行った廊下に向かって、か細い声でそう言った。


 午後からのだるい2時限を終え、校内が掃除やら部活の準備やらでざわつく中、清志は人通りの少ない廊下の隅にある水飲み場にいた。
 水道の蛇口をひねり、水を出す。それを、空っぽの小瓶で受ける。
 そう、なんだかんだとお題目を並べていたが、この小瓶の中身は……。
「やっぱり、嘘だったんですか」
「え?」
 突然声をかけられ、清志は顔をあげる。人目には充分注意していたはずだから、いささか驚いて。
 声の主は、江崎京香。悲しげな目で、こちらを見ている。
 数秒の間、2人の間に沈黙が流れた。だらだらと、水道水が流しを打つ音が、やけに大きく聞こえた。
「その水」
「いや、これは、その」
 上手い言い訳や嘘が思いつかなくてしどろもどろになってしまうのは、相手が京香だったからかもしれない。
「助けて……欲しかったのに」
 俯いて、京香が喉から絞るような声で言う。その様子に、ただならぬ雰囲気を感じ取り、清志は冷静さを取り戻す。
「何があった?」
 努めて落ち着いた声でそう問いただす。
「唯子がなんだか変でっ!だから、だから唯子を助けて欲しかったのにっ!」
 涙声の京香の叫びを聞いて、清志は授業中の唯子の様子を思い出した。
(まさか……?)
「内山はどこにいる」
 清志は、両手で顔を覆い泣いている京香の右手首をぐいと引っ張る。びくりと肩を震わせ顔をあげた京香の目に、真っ直ぐな眼差しの清志が見えた。
 その真剣な表情に京香は気圧され、細い声で
「保健室」
と答える。
「わかった。行こう」
 清志はひとつ頷くと、京香の手を取ったまま足早に保健室へと向かう。
「あ、あの」
 京香は清志に引っ張られて走りながら、話しかける。
「だって、それは単なる水道水でしょう」
「後で説明する」
 それだけ答えると、後は無言で走り続けたので、京香もそれについて行くしかなかった。


 校舎1階の西側にある保健室の引き戸が見えても、清志は走る速度を緩めなかった。しかし、どすん、と、内側から何かをぶつけた様な音がして引き戸が振動すると、その異様さに用心して足を止めた。
 その音と共に、木製の引き戸がめきめきと微かに鳴り、若干湾曲する。
「な、何?今の音、何なの」
 京香がうわずった声をあげる。
 清志は視線を保健室の引き戸に向けたまま京香から手を離し、そして、彼女の両肩に手をかける。
「江崎さんはここにいて」
 京香の返事を待たずに清志は保健室に向かう。その背を、京香はただ見送った。
 清志が戸の前に辿り着く前に、もう一度、どしんと音がし、今度は引き戸が外れ、外側に倒れる。
 引き戸と一緒に、保健室にいたらしい養護教諭も外に転がり出す。
「先生!」
 清志と京香は同時に叫ぶ。
 しかし、保険医は気を失っているらしく、返事をしなかった。
「大丈夫ですか、先生」
 清志はその傍らに膝を着いて、養護教諭の体を揺する。反応はない。このままにしておくと危険だろうと判断し、清志は養護教諭を引きずるようにして少し離れた所に移動させる。
 それから素早く立ち上がり、保健室内に目を走らせる。
 やはり、そこには、彼女がいた。
「内山」
 清志の声に、彼女は反応する。
 腰掛けていたベッドからゆらりと立ち上がって。残忍な笑みを浮かべて。
「どうしちゃったの?吾妻。血相変えて」
 声だけは、唯子のもの。でも、こんな禍々しい声質だっただろうか。清志は、乾いた喉に無理矢理唾を流し込む。
 更に、唯子は言葉を続ける。
「熱でもあるの?測ってあげよっか」
 と、右手をかざす。唯子と清志の間には、数メートルの距離がある。が。
 ぷしゅ、と唯子の右手から霧のように血が飛散する。そして、裂けた皮膚から、植物の蔦の様なものが、清志に向けて一直線に伸びる!
 ベッドの仕切りのカーテンがその風圧で翻った。
 清志は身を低くしてそれを避けつつ、一気に部屋の中央まで駆け込んだ。
「何よ。人がたまぁに親切な事言うと、こうなんだから」
 拗ねた口調でそういう唯子の右手に、蔦はひゅるるるん、と音を立てて収まる。後には、肌に裂傷が残るのみ。
 よく見ると、唯子の肌のあちこちに、裂傷が見え、制服のあちこちが破れたりほつれたりしている。
(もしかして、さっきのアレ、全身から出るのかも)
 これは充分に用心しなければいけないな、と思いつつ、清志は学生服の胸元を開け、首に下げている小瓶の1つを手に取った。
 その中身は、先程の水道水。「悪魔に取り憑かれた」と言って清志の元に来る人達の大抵が、この水道水で充分なのだ。
 清志は小瓶の蓋を開けた。
(だって、「取り憑かれた」っていうこと自体、気のせいだったりするからね)
 中には、ちょっと体がだるかったりするだけで、「取り憑かれた」と言って助けを求める人もいる。そんな人たちを「もう治った」という暗示にかける為の単なる儀式が、これなのだから。
「聖職者が浄めし水よ、内山唯子の体から悪魔を抜き去れ」
 文言を唱えて小瓶を掲げる。そして。
「抜魔師吾妻清志の命の元、消え去れ、悪魔よ!!」
 腕を大きく振りかぶり、唯子の頭上から水を降らせる。
「きゃあああぁっ!」
 唯子が髪をかきむしり、悲鳴を上げてうずくまる。
「あ、ああ……」
 呻く唯子の肌から、傷が消えていった。
 その様子を、清志は注意深く見守った。
(大丈夫か。これで、収まるか?)
 もしかしたら、という予感があるから、気を抜けない。
(もし、これで収まらなければ……)
 その時は。
「……」
 唯子の声が止んだ。唯子はうずくまったままだ。
「内山?」
 清志は探るように声をかける。唯子の様子にそれ以上変化がなかったので、清志は1歩、また1歩と彼女に近づいた。
 あと少しで、手を伸ばせば唯子に触れる事ができる。そんな距離に来た時だ。
「ばぁか」
 べろりと、長い舌を出して唯子が顔を上げた。
「!」
 咄嗟に清志は身を引いたが、その右腕には、唯子の背中から伸びた蔦に絡め取られている。
 蔦の力は、清志が想像していたよりも、ずっと強かった。ぶぅん、と清志の体は真横になぎ払われ、壁際に並べられていた薬品棚に向かって放り投げられる。
「うわっ」
 清志の短い悲鳴に、棚の戸のガラスが割れる音が重なる。
 どさりと床に落ちてすぐ、清志は真横に飛び退く。頭上から降り注ぐガラス片を避ける為だ。それでも、すべてを避けきられた訳ではないが。
「内山、お前なぁ、何すんだよっ」
 相手が唯子であって唯子ではない事は、重々承知している。けれども、清志はあえてそう呼びかけた。そうすることで、万が一にも唯子本人の意識が戻れば、と願っての事であった。
 清志は、頬から流れる血を指先で拭いつつ立ち上がり、唯子を睨む。
「……ぅ……」
 唯子の姿を見て、清志は言葉に詰まった。
(思った通りだ!)
 そして心の中で舌打ちする。
 唯子の全身から、彼女の皮膚を破り、蔦が伸びている。
 その蔦の先端は、いつでも獲物に飛びかかる準備はできているというように、空中でふよふよと揺れている。
「どうしたのよ、そんな顔であたしを見ちゃって」
 唯子がにっこりと笑う。
「京香を見る時の目と、全然違うのね!」
 しゅるるるん、と清志の足元に蔦が伸びてきた。
 清志はとん、と跳躍して蔦を避けるが、それを見越していたかのように、もう2本、清志の左右を挟むように蔦が伸びる。
「くっ!」
 これは流石に避けきれない。
 2本の蔦は清志の学生服の両肩を貫通し、清志を壁に貼り付けにする。幸い、清志の身体には何の損傷もなかったが、それでも動きを封じられるということは、有り難くない状況だ。
 何とか逃れようともがいていると、頭上から風を切る音が聞こえてくる。
 ふっと顔をあげると、鞭のようにしなる蔦が、清志めがけて振り下ろされていた。
「!」
 布を裂く音の直後に、蔦は清志の鼻先を掠め、床を打った。
「あ、危ねぇ〜」
 間一髪で制服を脱ぎ、床に腰から落ちた清志の頭上で、真っ二つに破かれた学生服がひらひらと揺れていた。
「吾妻君のバカあっ」
 緊迫した空気を縫って、京香の声が聞こえた。
「江崎さん?」
 引き戸の外れた保健室入り口から、京香がこちらを見ている。
「バカって、そりゃないでしょ」
 清志は眉を下げて苦笑した。けれど、京香は言葉を続ける。
「あんな、インチキみたいなことやってるから、こんな目に遭うのよっ」
 その罵声は、清志の身を案じるが為に出てきたもの。清志にはそれがわかった。
「うん、そうだね」
 清志は、床に手をつき、ゆっくり立ち上がる。
「でも、そのおかげで『本物』が出てきたんだ」
「え?」
 清志の言葉の意味がわかりかね、京香は怪訝そうに眉をひそめる。
 そして、清志は首から下がったもう1つの小瓶を握りしめ、唯子に鋭い視線を投げる。
「すぐにそこから追い出してやる」
 清志は力強く小瓶を引っ張り、蓋を外す。京香は息を飲んだ。
「だって、それは、水道の水……」
 清志の周囲に、ぱあっと水が広がる。
「聖職者の浄めし水よ」
 清志は右手を眼前に掲げる。
「抜魔師吾妻清志の命に従え!」
 水は一度霧状になったかと思うと、すぐに集結し、そして透ける刀身の剣となり、清志の右手に収まった。
 その様子を見ていた京香も驚いたが、唯子もひどく狼狽している。
 そんな唯子に向かって、清志はにやりと笑ってみせる。
「さっきまでのはダミー。こっちが本物」
 清志は、剣を眼前に水平に構える。
「すぐに内山の躰を解放しろ。そうじゃなけりゃあ」
 清志の言葉の途中で、唯子の体から、清志の体を貫こうと蔦が伸びる。
 しかし、清志が剣を一振りすると、蔦はあっさりと断ち切られ、分断された先端は、床にべちゃりと落ちてぐにゃぐにゃと蠢く。
 明らかに今までと状況が変わった事にたじろぎ、後退った唯子に清志は、
「力ずくで抜魔するのみ!」
と宣言し、剣を構えつつ突進する。
 襲いかかる蔦を、最小限の動きでかわす。足元を狙った蔦が伸びてきたので、清志は床を蹴りつけ、とても人間業とは思えない跳躍力で蔦と、そして唯子の体を飛び越え、その背後に着地する。
 唯子がはっとして後ろを振り返るが、清志の方が早かった。
 清志は振り向きざまに剣を真横に払う。唯子の胸に直線を引くように。
「きゃああぁあっ。唯子ーーっ!」
 京香の悲鳴が室内に響く中、唯子の体は、ゆっくりと、仰向けに倒れる。
 清志はその背中に腕を回して彼女の体が床に叩きつけられるのを防ぐ。清志の右手の剣は、既に消失していた。
「吾妻君のバカ!何て事するのよ!」
 京香が2人の元に駆け寄ってくる。
(バカって言われてばっかり。とほほ)
 清志は苦笑し、京香に言い訳する。
「大丈夫だってば。江崎さんも見てたでしょ?あの剣が何でできていたか」
「あ」
 京香は、それに気づいて片手で口許を押さえる。そして改めて唯子を見ると、彼女の体には傷がひとつもなく、代わりに、清志に剣で斬られたあたりが、水に濡れていた。
「良かった……」
 京香がほうっと息をつく。
 安堵した京香に、清志は笑顔で説明する。
「あれは、取り憑いた悪魔だけを斬って追い払うの。だから、人間はこの通り……うおっ」
 途中で視線を唯子の胸元に移した清志は奇声をあげる。
 唯子の体からは、水の力により、傷が全て消えていたが、水の癒しの力が及ぶのは人間にのみだ。
 制服はあちこち破れたままで、胸元からは、花の刺繍の入ったレースで覆われた、若草色の下着が覗いている。
 そのまま視線が固まってしまった清志に、
「吾妻君?どうしたの」
と、京香がいぶかしげに声をかける。
「あっ、いや、うん。何でもない。何でもないよ、うん」
 清志は慌てて視線を京香に戻し、冷や汗を隠しながら答えた。


 それから、30分もたたない内に、唯子は意識を取り戻した。別段、体調が悪い等の不具合はないようで、ジャージに着替えて京香と清志とともに、帰路につく。
 清志はもともと帰宅部であったし、唯子と京香にしたって、これから部活に出る元気はない。
 道すがら、実は午後の授業が始まってからの記憶が無いのだと、唯子は言った。
「でも、昼休みの事は覚えてる。なんか、吾妻にいろいろヤな事言ったよね。ごめん。そんななのに、助けてくれて、ありがと」
 唯子は清志に視線を合わせなかったが、その言葉には申し訳ないという気持ちが充分詰まっているのがわかった。
「ま〜、でも、インチキだったのもホントだからさぁ。保健の先生もたいした怪我じゃなかったし」
 清志も、唯子の素直な心をそのまま受け取るのが気恥ずかしく、あはは、と笑ってごまかす。
「だけど、本当にありがとう」
 京香の柔らかな声がかけられ、清志は京香の方を向く。
 清志に真っ直ぐ向けられた笑顔。半月状になった黒目がちな瞳。きゅ、と口角が上がった薄桃色の唇。
(うわ〜。江崎って、やっぱりホント可愛いっ)
 そのまま京香に見入ってしまいそうになり、清志は慌てて
「あ、そだ。俺、コンビニ寄って帰るから、ここで」
と言って立ち止まる。
 京香と唯子もそれに倣って立ち止まる。清志は2人に、
「じゃ、また明日な」
と言い置き、小走りでコンビニに向かう。
「うん。バイバイ」
 その背中に、京香は小さく手を振った。




 抜魔師。
 つまりはエクソシスト、悪魔払いの事である。
 日本でも過去にその資格を持つ者は存在していた。教会が、その力を有する牧師等に抜魔師免許を発布していたのだが、現在、その制度は廃止になっている。
 しかし、消えたのは制度だけである。
 今もどこかに、抜魔を必要とする者、そしてそれを為し得る者がいるかもしれない。


END
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