数日前まで、職員や患者、見舞いの者が行き交っていた大きな病院は、今は人の気配がなくひっそりとしていた。
その広い白い壁に3人の少年が向き合っている。足下には、いくつものバケツ。中にはそれぞれ違う色のペンキが入っており、近くに刷毛も置かれている。
「誰にも怒られずにこんな事できるなんて、快適だよなぁ」
脚立の上に座った少年が、壁面に刷毛を滑らせながら言う。
「そうだよね。ちょっと前ならさ、病院の清掃係のオバチャンが出てきて、ひどく怒鳴られたもんな」
バケツの中で刷毛を回しペンキを溶いている少年が、脚立の上を見上げて言う。
病院の壁のあちこちには、描きかけの絵がいくつかあった。それは全て、この少年達が描いては途中で怒鳴りつけられ、続きを断念したものばかりだった。そのうちいくつかは白く塗られて消されたが、いくつかはまだ消されずに残っていた。しかし、清掃係員達によって壁をブラシでこすられたため、絵はぼろぼろに掠れ、続きを描く気が失せてしまったのだ。
「でも、せっかくのびのびと描けるようになったっていうのに、今度は時間が無いときたもんだ」
ペンキを塗る手を休めて、もう一人の少年が言う。
「そうなんだよな……。テッドは、明日だったっけ?」
しゃがんでペンキを溶いていた少年は肩を落としてから、再度脚立の上を見上げ、声を掛ける。
「ああ、明日の午後。ケン達は?」
テッドは脚立の上から2人を見下ろして問う。しゃがんでいたケンはバケツから刷毛を引き上げて立ち上がる。
「俺たちの国は、1週間後までに、この地域を撤退するように命令されたよ」
「そうか……」
テッドは再び、絵を描き始める。蒼いペンキで、空を塗る。
「俺んちは3人家族で、みんな健康だからいいけどさ。トマスん家は大変だよな。赤ん坊はいるし、脚の悪いじいちゃんはいるし」
「うん、まあね」
ケンにそう言われ、トマスは青々と茂る草を描きながら答える。
「家具なんかもいっぱいあってさ。でも、みんなで一緒に行きたいし、持てる限りの持ち物は持って行きたいし」
「だよなぁ」
ケンは壁に花を書き始めた。黄色の、ヒマワリ。
ここは2国の境界上にあり、2国の領地にまたがった街。西側がテッドのいる国で、東側がケンとトマスのいる国だ。家が両方の領地にかかってしまった場合、どちらの国の国籍を選ぶかは、自由に決められる。
そんな不安定な街。
そして、その2つの国が……戦争を始めてしまった。
敵同士が仲良く一つの街に住むことを、当然両国の首脳陣は良しとせず、どちらの国も、街の住民に対して撤退命令を出した。
住民は、2つに引き裂かれる。
たとえ友人であっても。たとえ恋人であっても。たとえ血を分けた親族であっても。
国籍が、違えば。
「なあ、戦争、終わるかなぁ」
しばらく3人は黙って絵を描いていたが、ケンが、どちらに、という訳でもなく問いかけた。
「そりゃ、終わるだろ。いつかはな」
ペンキを塗る手を休めずテッドが答える。
そしてまた、沈黙。バケツに刷毛を突っ込む音と刷毛が壁を滑る音が、妙に大きく聞こえる。
「なあ」
再び、ケンが口を開く。
「この絵、超大作だと思わねぇ?」
テッドとトマスは、ぷっと吹き出した。
「何言ってんだよ」
トマスはケンの言うことを冗談として受け取ったが、テッドは、
「いや、ケンの言うとおり、これは超大作だぜ?」
と、ちょっと体を後ろに引いて、絵をまじまじと見る。
「だろ、だろ?」
ケンが調子づく。
「戦争が終わったらさ、この絵を世間に公表しようぜ。そしたら俺たち、一気に有名になって、お金持ちだ。トマスのじいちゃんだって、良い医者にかからせてやれるぞ」
トマスも笑う。
「そりゃありがたいな。じいさんも喜ぶよ」
3人は、陽が落ちて、色の違いが見分けにくくなるまで、絵を描き続けた。
テッドは心の中で、明日なんか来るな、明日なんか来るなと祈り続けたが、やはり、1日は終わってしまうのだった。
「これで一応、完成かな」
刷毛をバケツの中に放り込み、ケンが言う。
「暗くてなんだかわかんないよ」
テッドは脚立を畳みながら絵を見上げた。
「いいや、きっと超大作に仕上がっているさ」
トマスが笑った。
薄暗い中、片づけ作業をしたがらケンが、
「戦争が終わったら、みんなでここで会おうな」
と言った。
2人は片づける手を休め、ケンに注目する。
「ほら、だって、誰かが抜け駆けして、1人でこの絵を公表しちゃったら困るじゃんか」
とケンは笑った。
「あ、そうか、そうだよな」
つられて2人も笑う。
人のいなくなった病院の敷地内に、3人の笑い声が響いた。
そして、数年の歳月が過ぎ。
戦争は終わった。どちらの国も、国力を消費させて。
形上は、テッドの住む国が勝利した事になったが、多くの国民が死に、財力も減り、産物を作り出す力もなくなったこの国も、いずれ他の国に吸収されてしまう事だろう。
そうなったらそうなったで、なんとか生きていくしかない。たとえ地を舐めるような生活が待っていたとしても、生きている限りは命を続けていかねばならないのだ。
終戦の報せを聞いてすぐ、テッドは3人で絵を描いた病院を訪れた。
街には人気がなく、ただ、兵士達が踏み荒らしていった跡だけが残されていた。
この状況を見れば、あの絵がまだ残っているかどうか自体があやしい。
多くの家屋が倒壊し、壁も汚れている。
あの絵は、どうなってしまっただろう。不安が彼を走らせる。
病院の建物は、しかし、そこに建っていた。
窓は破れ、真っ白だった壁は茶色く煤けおまけにヒビだらけ。
それでも病院は、そこに建っていた。
壊れた門扉を通り抜け、テッドは敷地内に入る。3人で絵を描いた壁を目指して。足にからみつく雑草を気にもとめず、テッドは病院を壁沿いにぐるりと廻り、そして。
「あ……っ、た……」
絵を見つけた!
煤けてしまっているが、少しひび割れてしまっているが。確かに、あの日、3人で描いた絵だった。青空と茂る草、そしてヒマワリ。
「あった、あったよ!残っていた!」
歓喜の声をあげ、この街を離れてから初めて、テッドは心からの笑い声をあげた。そして、壁の絵にぺたりと身を寄せ、頬をつける。その頬を、知らぬ間に涙が伝っていた。
それから、ふと身を起こし、きょろきょろと辺りを見回す。
ケンは、トマスはどうしただろうか。
戦争が終わったら、ここで会おうと言ったのに。
彼らの国は、敗戦国だ。戦後の混乱で、まだここに来るどころではないのかもしれない。
もうしばらく待とう。
それから、テッドは午前中の内に病院に行き、日が暮れる頃に帰るという毎日を過ごした。
そんな日々を過ごすようになってから2週間目の事だ。
「テッド!」
瓦礫に腰掛けてラジオを聴いていたテッドの耳に、懐かしい声がした。
「ケン!」
テッドは立ち上がる。そして自分を呼んだ声の主の元に、駆け寄った。
「無事だったのか?無事だったんだな、テッド」
「ああ、ああ。ケンも、ちゃんと生きているな」
2人は、お互いが生きている事を確かめる様に互いの腕をたたき合った。
「見ろよ。絵もちゃんと生きてるぜ」
テッドは、壁の絵を指さした。ケンはそれにつられて、壁を見上げる。
「本当だ……」
「俺たちと一緒で、この絵もしぶとかったみたいだ」
と、テッドは笑った。
「これで、後はトマスが来たら、いよいよこの絵を公表しような」
テッドがそう言うと、途端にケンの表情が曇る。
「ケン?」
その顔に、ある予感がしつつも、それを封印し、テッドはケンに問う。
「ちょうど、その場所だ」
ケンは、先程までテッドが座っていた瓦礫を指さして言う。
「え?」
テッドは瓦礫を振り返る。くすんだオレンジ色の瓦礫。その下の地面には、短い雑草がまばらに生えている。
「あの場所で、トマスは倒れた。俺たちの国の、兵士の銃に撃たれて」
「どうして!」
テッドはケンの両腕を強く掴んだ。
どうして、撤退命令が出ていた街に戻ってきていた?どうして、戦地となってしまったこの街に。敵か味方かわからない服装であれば、自国の兵に殺害される可能性もある事くらい、十分にわかっていたろうに。
「書き忘れたんだ」
掠れた声でケンは答える。
「書き忘れたって……何を」
テッドが問うと、ケンは絵に視線を向ける。
「絵に……」
「絵なんかどうでも良かったじゃないか!」
テッドは叫んだ。が、ケンは弱々しく首を横に振る。
「どうでも良くなんかなかった。大事なものを、書き忘れていたから、俺たちは戻ってきたんだ」
2人で、こっそりと。けれど、兵に見つかって。
ケンはテッドの手から離れ、壁に向かう。そして、ある場所でしゃがみ込み、丁寧に、壁を撫でた。
「大事だったんだ。もしかしたら、もう、3人で会えないかもしれないと思うと、どうしても、どうしても書き記しておきたかった。3人の名前を」
時折鼻をすすりながら、ケンは言った。
テッドもその場所に歩み寄り、ケンの手元を見る。
そこには、「ケン、テッド、トマス」と、3人の名が記されていた。
テッドはケンの隣にしゃがみ、そこに記された名前を、じっと見た。見ているうちに、だんだん、その文字が滲んで見えなくなり、ぽつりと落ちた滴が、廃墟の土に染み込んでいった。
数年後、風変わりな画家が現れた。必ず合作を描く画家で、絵に記されたサインは、いつも3人の名前。けれど、実際に絵を描いていたのは、2名だったという。
後書き
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