「ニネの、ボディガードですって?そんなの、聞いてないわよ!」
家に帰ると、案の定、ルイズが目を吊り上げて怒鳴った。
「いや、すまないね。昨日のうちに言っておくのをすっかり忘れていたよ」
アーウィンはエルオウィーラについて、旅先で出会い、ニネのボディガードになるよう契約した者であり、都合があって今日マージェストに着いたのだという説明をしたのだ。
さらに、魔法を使えますと言った途端にこの有様だ。
しかし、魔法のことを抜きにして考えても、ルイズが怒るのももっともだ。
現在、この家の主な家事を取り仕切っているのは彼女なのだから、家に住み込みのボディガードを雇うとなると、その食事の世話などはルイズの負担になることは間違いがないのだから。
「でもまあ、もう契約しちゃっているものはねぇ」
「いいんじゃないのかい、今日だってこの人のおかげでニネが無事に帰ってきて、船に入った泥棒も捕まったんだから」
「それにしても、魔法を使えるなんてねぇ」
エイナとジョナスが物珍しそうにエルオウィーラをいろいろな角度からじろじろ見ながら、そう言った。
ルイズといえども、年老いた両親が「可」と言っているものを、いつまでも自分だけ「不可」と言っているわけにもいかなかった。
「ああもう、わかったわよ。けどね、そのかわり、家の中のことだって手伝ってもらいますからね!」
不承不承、ルイズはエルオウィーラを家に住まわすことに了承した。
しかし、日が経つにつれ、エルオウィーラは礼儀正しいうえ、知識もあるのでニネの勉強相手になり、さらに、彼の手が空いた時には家事の手伝いを命じる事ができるという利点もあったので、ルイズの態度は少しずつ軟化していくのだが、それはまだ後のお話だ。
さて、ニネは朝に帰ってきたために、食事は朝食と昼食を兼ねたものになった。
「さ、エルオウィーラ、ここに座って」
ダイニングテーブルにエルオウィーラとニネが並んで座ると、エイナが二人分のサンドウィッチを盛った皿を差し出した。
「ありがとう、お祖母ちゃん」
ニネがサンドウィッチに手を伸ばす。
ところがエルオウィーラは、目の前のサンドウィッチをただ不思議そうに見つめていた。
「お腹、すいてないの?」
ニネは、サンドイッチの皿をずい、とエルオウィーラの前に滑らせた。
しかしエルオウィーラは、
「いえ。私はヒトと違いまして、消化器官というものがありませんので」
と、サンドイッチの皿をニネに返す。
「え?今、何て言ったの」
何か、信じがたい事実を聞いたような気がする。ヒトと違って、とか言わなかったか。
じゃあこの青年は、ニネたちと違う、人間ではないということなのか。
ニネの疑問をよそに、エルオウィーラは
「私の場合、食事の香りで満たされるようにできているんです。ですから、できれば定期的に食事の香りをかがせて頂きたいと思います」
と説明する。
それはまた、変わった燃料で動くものだ。
いや、本来はエルオウィーラの燃料源を問いたいのではなく、なぜその燃料源で動くことができるのか、ということを問いたいのだが。
しかし、ここでエルオウィーラの正体を暴くのは躊躇われた。
もし、人間ではない、何か違うものだとしたら。せっかくエルオウィーラを家に置いてもらえるようになったのに、それが駄目になってしまうかもしれない。
だからニネは、腑に落ちない様子で、「へぇ〜」と頷き、サンドイッチを頬張った。
幸いなことに、ダイニングテーブルから少し離れた場所にいて雑談している他の家族には今の会話は聞こえていなかったらしい。
しかし今後は、エルオウィーラがものを食べないという事実をなんとか家族に誤魔化し通す方策を考えなければならないだろう。
「それじゃあエルオウィーラは、好きな食べ物の匂いとかってある?」
「ハーブ類が好きですね。けれど、昆虫類は苦手です」
「……へぇ〜」
いまいち理解できない会話をしているうちに、ニネは食事を終えた。
「エルオウィーラ、いらっしゃい。これからこの家で暮らすんだから、家の中のこと、いろいろ知っておかないとね」
ニネはぴょこんと椅子から降りると、空いた皿を持ち、
「まずはキッチンね」
と歩き出す。
「あ、マスター。そういった事は私が」
ひょい、とニネの手の中から皿が浮き上がると、それはエルオウィーラの右手に納まった。ニネはちょっとびっくりしたが、そろそろエルオウィーラの魔法にも慣れてきた。
「ありがとう。でもね、あたしの事、マスターって呼ぶのはやめて」
「なぜですか?」
「なんかこう、しっくり来ないのよね。変な感じ。ニネで良いわよ」
「わかりました。そうしろと仰るのなら」
「ついでにその、カタクルシイ話し方も、なんとかならないかしら」
「努力します」
キッチンに着くと、エルオウィーラの手の中からふわんと皿が浮いて、ひとりでにシンクの中に入ったかと思うと、皿の内側から泡がわき上がる。しかしその泡も一瞬で消えて、後はきゅきゅっと音が鳴りそうなほど綺麗になった皿が残った。
ニネはその様子を、ぽかんと口を開けて見ていた。
「すごい。何でもできちゃうのね」
「何でも、という訳ではないですよ」
「でも、お祖母ちゃんはこんな魔法使えないわ」
言ってから、ニネははっとした。
そう、祖母エイナは魔法を使うことができるけれど、こんなに簡単には使えない。羊皮紙に魔法陣を描いたり、いろいろな材料や薬品を混ぜ合わせたお香を作ったり、長々と呪文を唱えたりして、やっと花火をあげられるくらい。
「ねぇ、エルオウィーラ。呪文は?今、呪文唱えなかったよね」
エルオウィーラの呪文を聞いたのは、船の中で侵入者を檻の中に閉じこめる時だけだった。
「この程度なら、特に必要ありません。大きな力を起こしたり、威力を持続させなければならない時には多少唱えます」
「すっごぉい、なんか、本の中の魔導師みたい!」
ニネは声を弾ませ、瞳を輝かせてエルオウィーラを見つめた。
エルオウィーラがふいにその右手をすうっとあげ、ニネの口元に触れる。
「え、何?」
ニネが驚くと、
「あ、すみません」
と謝り、それからニネに触れていた手を自分の口元に当てる。そこから、今まで無表情だったエルオウィーラの顔に、笑みが生まれた。
「笑い方を知りたかったものですから。なるほど、こうやって、笑うんですね」
エルオウィーラの端正な顔は、笑顔になっても崩れることはなく、いや、ますます美しく見えた。
ニネはその日1日、ずっとエルオウィーラにつきっきりであった。
エルオウィーラは、明るい場所でじっくり見てみても、船の中にあった他の人形みたいな間接の継ぎ目は見あたらないし、やはり普通の人間にしか見えなかった。
変わっているのは、お話の中の魔法使いみたいな杖とマントという出で立ちだけ。
なぜ左手が動かないのか尋ねてみたが、それはエルオウィーラにもわからないようだった。左手を魔法で動かしてみてはどうかと提案してみると、エルオウィーラは杖を掲げ、一心に念じていたようだが、やはり、左手は持ち上がりもしなかった。
日が落ちて夜になると、ニネにはまたエルオウィーラに対する疑問が出てきた。
「ねえ、エルオウィーラは、眠ったりするの?」
「初めて会った時、眠っていたじゃないですか」
ニネは、木箱に収まっていたエルオウィーラを思い出した。あの、まるで死体のような状態は、睡眠だったのか。
「じゃあやっぱり、エルオウィーラの分もベッドとか毛布とかいるわよね」
空いている客間を使ってもらおうかしら、とニネが考えていると、
「気を遣わないでください。私は立ったままでも眠れますし、何なら、木箱を用意して頂ければ、それで結構です」
と敬遠する。
しかし、夜の夜中に、マントを羽織った青年が突っ立ったまま目を閉じていたり、木箱の中に入っていたりしている様子は、想像しただけでも何だか不気味だ。例えば泥棒が夜中に侵入して来たとして、目を閉じ微動だにしないエルオウィーラの姿が闇の中にぼんやり浮かび上がるのを見たなら、あまりにびっくりしてその場に卒倒してしまうだろう。
「ううん。客間にベッドを用意してもらうから、お願いだから、それを使って」
「私にはもったいないです」
「いいから」
こうして、エルオウィーラにはまるで家族の一人のように、部屋が一室与えられた。
翌朝、早速エルオウィーラを連れて登校しようとしたニネに、アーウィンが注意した。
「いいかい。エルオウィーラにむやみに魔法を使わせちゃダメだよ。魔法のように、他人と違う力というものは、誰かを傷つけることもある。それをよく、頭に置いておくんだ」
ニネは、アーウィンの言いたいことはだいたいわかった。
「大丈夫よ、パパ」
そう答えてから、ニネは、自分の後ろに控えているエルオウィーラを振り返る。
「じゃあ、行きましょう」
「ええ」
エルオウィーラは、ニネが手に提げている、勉強道具の入った鞄を魔法で持ち上げる。早速、アーウィンが注意する。
「むやみに魔法を使ってはいけないというのは、自分でできることは自分でやるように、という意味もあるからな」
「はぁい」
ニネはふわふわと浮遊する鞄の持ち手を捕まえた。
「じゃあ、行ってきます」
外は気持ちいいくらい晴れ渡っていた。こんな朝は、ひとつ呼吸をしただけで、胸の中が綺麗な空気でいっぱいになる気がする。
エルオウィーラは、きょろきょろと庭の木々を物珍しそうに見つめていた。花の咲いた枝にそっと手を触れる。
「うちの庭木は、季節によっていろいろな花が咲くわ。帰ってきたら、ゆっくり説明してあげる」
「はい」
エルオウィーラは庭木から離れ、ニネとともに歩き出す。
「エルオウィーラ、あなた、花が好きなの?」
「いえ、花の香りは特に食べません。少し青臭い感じがするので」
「そういう意味じゃなくって。花を見るのが好きなの?ってこと」
そういう意味でしたか、とエルオウィーラは大きく頷いてから、ええ、好きですと答えた。エルオウィーラは、時々話がかみ合わない。それもまた楽しいと言えば楽しいのだが。
学校は、丘を降りきったところに建っている。住宅地を抜けて、ほんの100歩ほどの長さしかない商店街のアーケードを抜けて。
通学路で顔を合わせる人々は皆ニネの顔見知りだ。挨拶を交わしながら学校へ向かう。
誰もが、ニネと一緒に歩くエルオウィーラに注目した。彼の存在は、たった1日で、街の大半の人に知れ渡っていた。
「へぇ〜、この彼が、噂の?」
庭の花の手入れをしている近所のおばさん。
「そうなの」
と、ニネは軽く答えるが、エルオウィーラは、
「はい。よろしくお願いします」
と、丁寧に挨拶を返す。
店先で開店準備をしている商店のおじさんに
「これが例の魔法使いさんだね。活躍したって話じゃないか、すごいねぇ」
と言われると、
「いえ、それほどのことでは」
と謙遜する。
「きゃんきゃんきゃん!」
散歩中の子犬に吠えられると、
「そんな、うさんくさいヤツだなんて言わないでください」
と、しゃがみ込んで話しかける。
「きゃうん」
「わかってくれればいいんです」
一体犬とどんな会話をしているというのか。
「エルオウィーラ、学校に遅れちゃう」
さすがにニネはしびれを切らした。
「はい、すみません」
即座にエルオウィーラは立ち上がり、ニネの隣に戻ってくる。
街中に近づくにつれ、荷馬車の往来が激しくなった。
「ニネ、この道は危ないですね」
マントの裾を持ち上げて車輪が巻き上げる土煙からニネを守りながらエルオウィーラは言った。
「そうね。この街では、世界各国からの商品が売り買いされているの。だから、こうやって荷物を運ぶ馬車が多いのよ」
「そうなんですか」
エルオウィーラはふんふんと頷いた。
エルオウィーラに物事を教えてゆくのは、自分が先生かなにかになったような気がして、少し気分が良かった。
「パパも商船を持っているから、忙しいみたいなの。そうだ、エルオウィーラ、あたしの授業中は、学校にいても仕方がないし、港に行ってパパを手伝ってくれないかしら」
「はい、喜んで」
エルオウィーラはにっこり笑って承諾する。
そうこうしているうちに、煉瓦造りの2階建て校舎が見えてきた。正門から真っ正面に見える正面玄関には大きなステンドグラスが嵌めてあり、朝日に輝いている。
「綺麗ですね」
エルオウィーラがゆったりとそのステンドグラスに見とれていると……。
ばたばたばた、というような雑音が後方から近づいてくる。それとともに、
「危ないわよー!どいてどいて!お願い!」
と叫ぶ、女性の声。
ニネとエルオウィーラ、そして、その周辺にいた生徒たちは皆振り返る。エルオウィーラは素早くニネを引き寄せ、自分のマントの中にすっぽり彼女を包む。
太い車輪をつけて武装した自転車みたいな2輪の乗り物を、ゴーグルをかけた女性が運転している。
後輪横に付いた銀色の筒から、「ばたばたばたっ」と雑音とともに、不規則に煙があがっている。
「止ぉまぁれェェェェェっ」
女性はハンドルを切る。車体はほぼ横倒しになって正門に向かって滑っていき、激しい土煙をあげた。
どすんと、門の柱にぶつかったらしい音がする。
皆が呆然として見つめる中、収まっていく土煙の中で、ゴーグルの女性が立ち上がる。
「いったたたた」
すりむいたらしい手をぷらぷらと振る。綺麗にまとめていたとおぼしき黒髪はほつれ、厚手の麻製シャツもあちこち汚れたり擦り切れたりしている。
同じ素材で作られたショートパンツからにょきっと伸びた、程よく肉付き滑らかな曲線を描く脚も、あちこち擦り切れて血が滲んでいる。
「みんなは、怪我はないわね?」
女性はゴーグルを上げ、にっこり笑って生徒たちに問いかける。彼女の左目の端には泣きぼくろが2つ並んでいた。
生徒達は呆気にとられるばかりであった。
ニネがエルオウィーラのマントの下からひょこっと顔を出すと、丁度彼女は、
「はあ、もう。せっかく南大陸から持ってきたオートバイだっていうのにさ。やっぱり、燃料に料理油を混ぜたのがいけなかったかしら」
と、ブーツを履いた足で武装自転車の車輪を軽く蹴飛ばしていた。
「南大陸」
その言葉を聞いたニネは、急に目を輝かせ、マントの中から飛び出ると、彼女が「オートバイ」と呼ぶ、その武装自転車に駆け寄った。
「これ、南大陸の物なの?」
重たそうなオートバイを起こした女性は、興味津々のニネに気づいて顔をほころばせた。
「あら、あなた、ここの生徒さん?」
「はい。ニネ・レッドヴェールといいます」
ニネは頷く。
「そう。あたしはね、今日から1週間だけこの学校で特別講師をすることになった、ルルカ・シェイングィッシュよ。よろしくね。普段は地学を研究するため、世界のあちこちを旅しているの」
それを聞いて、ニネの瞳はさらに輝く。
「すごい。だから、南大陸の物も持っているのね」
「まぁね。でも使い方よくわからなくてね」
ルルカは苦笑する。
「ニネ、見慣れない物に不用意に近づいてはダメです」
エルオウィーラがニネの隣に並ぶ。
「おや、君はお兄さん?」
ルルカがエルオウィーラの姿を目に留め、そのマント姿と杖を見て、
「この地域には、まだ魔法使いさんがいるのね」
と関心する。
「いえ、私は兄ではないんです」
と、エルオウィーラが説明しようとした時、校舎の2階からルルカを呼ぶ声が降ってきた。
「ドクター。何してるんですかぁ!もう皆さん職員室に集まってますよ!」
窓から身を乗り出して焦った様子の、ルルカより5歳ほど若く見える青年。
「ごめんごめん、今行くわ」
ルルカは声を張り上げて返事をし、
「あのコはあたしの助手。ジュンていうの、あたし共々よろしくね。それじゃ、また後で」
とニネ達に言うと、玄関脇にオートバイを停めて足早に校舎に入っていく。
ルルカが去った後も、ニネはオートバイを興味深げに眺めている。
「きっと南大陸では、みんなこんな乗り物に乗っているのね」
「ニネ、危ないですよ」
「いいなぁ。あたしも、南大陸行ってみたい」
ニネは、エルオウィーラの注意など耳に入っていなかったようだ。
「どこにあるんですか、南大陸って」
「世界の、南側半分の事を南半球っていうんだけどね、そこの大部分を占めている大陸が南大陸よ。エルオウィーラ、あなたの船も南半球の島から持ってきたって聞いたけど?」
「すみません……以前の事はあんまり記憶になくて」
エルオウィーラは記憶を探るように、額を指で叩いた。が、何も思い出せなかったようだ。
「そうなの、ちょっとだけ残念だわ」
「すみません」
「やだな、謝らなくてもいいわよ。だって仕方ないじゃない」
エルオウィーラが気にするといけないので、そう言ってから、ニネは、
「それじゃあ、そろそろ行くわね。学校が終わる頃に、また迎えに来てね」
と笑顔を向けた。
「はい、迎えに来ますね」
エルオウィーラも、思い出そうとしたり、思い出せない事を気に病んだりするのを止め、ニネに笑顔を返した。
教室に足を踏み入れたニネにかけられた言葉は、仲の良いジェス達のおはようの挨拶ではなく、ベス=エリーのちょっとトゲのある声だった。
「あら、なぁんだ一人なの?ウワサの魔法使いさんの自慢をしに来ると思ったのに」
何の脈絡も無く、なぜ突然にこんなにも敵意を剥き出しにされているのだろう。
ニネは思い当たる節がなく、しばし怪訝な顔をした。
しかし、ベス=エリーの後ろで、何の悪意もないジェスとマークが、
「ニネ、ずるい!あの兄ちゃん、俺たちにも会わせてよ」
と騒ぎ立てたので、ニネは、ああなるほどね、と納得した。
ベス=エリーは単に、ニネが他人の持ち物よりも良い物を持っていること(今回の場合は物ではないが)、そしてそれが皆の羨望の的になっているのが面白くないだけなのだ。
他人から向けられるそういった嫉妬の類を、ニネは敏感に感じ取る事ができた。この年頃の女の子は、少しずつそういった能力を身に付け始める。そして、それを受け流す術も、反対に刺激して湧き上がらせる術も、それなりに習得していくのだ。
「あたし、あなたに自慢できるようなものなんて何もないわよ」
ニネはベス=エリーの横をすり抜け、ジェス達に「おはよ」と挨拶をしてから自分の机の上に鞄を置く。
「あ、でも、パパの魔法船が本物だったって事は自慢できるかも。ベス=エリーの期待通りじゃなくて申し訳ないけど」
そう言ってニネはにっこり笑った。明らかにむっとした表情のベス=エリーには気づかず、ジェス達は、
「そうだよな、あの船、すっげぇよな!」
と先日の興奮を思い出したようだ。
「そうやっていっつもニネの味方ばっかりして。ジェスってばニネが好きなんじゃないの」
突然冷水のように浴びせかけられたベス=エリーの大声に、ジェスとマークはしぃんとする。
ジェスは怒ったような表情になり、頬がみるみる紅潮していった。
「バカ言うなっ!」
ジェスが怒鳴る。クラスメイトがひゅう、と口笛を吹くマネをする。それを合図に、教室内はジェスをはやし立てる声でいっぱいになった。
ジェスはますます真っ赤になって「うるせえっ」と怒鳴り散らす。
「そんな事言って、ベス=エリーこそ、ジェスが好きなんじゃん」
喧噪に紛れて、クラスの女子がとんでもない事を暴露する。
たとえそれが真実であっても、この場では禁句だったであろう。火事現場に水の代わりに油を撒くようなものだ。
教室内のはやし立てる声が一層大きくなる。
ああ、おかしな風向きになってきたとニネは思った。
クラスの女の子たちは、少し前から、誰が誰を好きだとか、そんな話が大好きになっていた。
女の子の友情の証は、好きな男の子を打ち明け合うこと。だけど、ニネはそのルールから外れてしまった。特別で、彼だけのためにドキドキする。そんな男の子を、選べやしなかったから。
なのに、女の子達の間では、好きな男の子を作ることがまるで義務のようになってしまっていた。恋の話は、数字の羅列を整理する公式よりも、外国の言葉を覚えるよりも大事だと彼女たちは決めつけている。
それがまた、ニネの気に障るのだ。だからニネは、誰かが誰かを好きなんていう話はつまらないと思っていたし、一番苦手だった。
その一番苦手な話題の渦中に、自分が巻き込まれている。
「静かにしなさいよ。どうでもいいじゃない、そんな話」
ニネはそう言い放つと、すとんと椅子に座る。
「わぁ、ニネが怒った」
「ニネもジェスが好きなんじゃない?」
今は何をしたってクラスメイトの冷やかしの餌食になるだけのようだ。
「それではレッドヴェールさん、真実をどうぞ。ジェス・コーランドの事はどう思っていますか?」
調子のいい男子が新聞記者のようにニネに訊ねる。どう答えても、彼らの都合が良いように遊ばれるだけだ。ニネは眉をひそめたまま、彼を無視した。
ニネ達を救ったのは、始業を報せるベルの音だった。
みんなきゃあきゃあ言いながら、三々五々、自分の席に戻る。
ジェスは、最後までニネの席の傍に残っていたが、ニネの前に真っ直ぐ立ち、彼女を睨みつけるようにして、
「オレは、別に、ニネの事なんか好きじゃないっ」
と大声で宣言してから、大股で自分の席に戻っていった。
ニネはただ、「何よそれ」と、ぽかんとするしかなかった。
しかし、朝のそんな騒動も、ニネの頭からはすぐに消えてしまった。
「みなさん、おはようございます。今日から1週間、特別講師として招かれました、ルルカ・シェイングィッシュです。よろしくね」
教壇に、滑らかな脚線のルルカが立つと、ニネの心はぱあっと晴れ、変な騒動に巻き込まれてしまったという些末な出来事はどうでもよくなってしまったのだ。
教壇の横には、大きな箱を抱えたルルカの助手であるジュンが控えている。
ルルカの声は明瞭で教室内によく響いた。
「みんなの中には、他の大陸へ旅した事がある人はいる?」
何人かの生徒が手をあげる。ニネも当然、手をあげた。ルルカは、生徒達の中にニネの姿を見つけると、にっこりと目を細めて笑い、
「確か、ニネ、だったわよね。あなたはどこへ旅をしたの」
と訊いた。
「あたしは小さな頃、パパの船に乗って一緒にいろんな街を旅をしていたの。一番遠い街では、ジェイパンまで行ったわ」
ニネは、アーウィンと船旅をしていた毎日を思い出した。甲板で受ける風、陽光。それらのなんと気持ちの良かったことか。
同じ年頃の子こそいなかったけれど、甲板員は皆ニネに優しく、いろいろな事を教えてくれた。アーウィンがニネのために雇ってくれた家庭教師も同行していたから、学校に行かなくても必要な学習をすることができた。
様々な街の様子を見て歩く楽しさといったらなかった。
なんの不自由もなく、生き生きと過ごしていたあのころ。
しかし、ニネが10歳になった時、叔母のルイズが、同じ年頃の子達が大勢いる学校に通った方が良いと主張したため、今の学校に通うようになったのだ。
「そうなの。じゃあ、南大陸に行った事のある人はいる?」
ルルカの第2の質問には、誰も手を挙げなかった。
この世界はまん丸だとわかったのはつい最近の事。北半分を北半球、南半分を南半球と呼ぶ事に決めたのは世界がまん丸だとわかった後のこと。
造船技術が進み、船が南半球に行けるようになったのはさらに最近。
現代でも、よほど技術がしっかりしている船じゃなければ、容易に南半球、さらに南大陸になんて行けない。
だから、まだ12歳の子供達が南大陸に行くなんて事は、かなり低い確率なのであった。
ルルカは、全く手の挙がる気配のない教室を見回してからにっこり笑うと、
「私はね、地学を勉強しているの。そのために、南大陸にも行ったわ。南大陸はね、この辺りとは全く地質が違っていて、みんなが見たことのない鉱物がたくさんあるのよ」
と行って、傍らに控えているジュンに目配せをした。
ジュンは頷くと、教卓の上に抱えていた箱を置いた。中身はずいぶんと重そうである。
ルルカは箱の中に手を突っ込むと、真っ黒でごつごつしたこぶし大の石をひとつ取り出した。
「これは、リンリンジウムね。この大陸でも、標高の高い所では採掘できるわ。知っている人もいるとは思うけれど、強い摩擦で磨くと、ぴかぴかの宝石になるの。こんな風にね」
ルルカは箱の中から、透明な輝きを放つ宝石がずらりと並んだブレスレットを取り出した。女の子たちの歓声やため息が溢れる。
ルルカは、うふふ、と笑って
「綺麗でしょー、他にもね、いろいろな石があるのよ」
と、また箱の中に手を入れた。
「先生、それはカレシに貰ったんですか」
突然、一人の男の子が質問する。
ルルカは一瞬びっくりしたような表情をしたが、すぐに、
「そんなの秘密よぉ」
と笑い飛ばした。
「先生カレシいるの」
別の男子が訊く。するとルルカが照れ笑いをしながら、
「心に決めた人はいるわよ」
と言ったものだから、クラス中がわぁっと盛り上がった。
なんだか今日はこんな話ばっかりだ。ニネは内心うんざりしたが、ルルカがすぐに話題を変えたので、それほど気分は落ち込まかった。
「この話はまた、その内にね。それじゃ今度は、ちょっと珍しい鉱石を見せてあげる。窓の傍の席の人は、カーテンを閉めてくれるかな」
その言葉に、みんなは「何、何?」と一気に興味を鉱石に注ぐ。
「これは、南大陸でも珍しい石ね。石が自ら、内側から発光するの」
ルルカが取り出した石は、確かに薄ぼんやりと光っているように見えた。けれど、いかんせん、その光は弱かった。
「よく見えないかな?みんな、傍に来て、じっくり見てみて」
ルルカにそう言われて、生徒たちは立ち上がり、教卓の回りに集まる。
近くで見るとその石は、確かに内側から輝いていた。それも、単一の光ではない。石の中に夜空でもあるみたいに、幾つもの小さな光の粒が輝き、瞬いていた。
その輝きに、みんな目を奪われ、歓声をあげた。もちろんニネだって例外じゃない。
「すごい。綺麗ね」
ニネは思わず笑顔になって、近くにいたジェスにそう話しかけた。
しかし。
「ああ、まぁ……」
と、ジェスははっきりしない返事をして、ついっとニネの傍から離れていった。
ニネの頭の中が一気に冷えた。ジェスの背中は、ニネからの言葉を一切拒否していた。
何なのよ。
ニネは心の中で文句を言うしかなかった。
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