そしてその晩。家庭での夕食が終わる頃の時間。
今日は学校で体育があってとても疲れたから早く休むわ、と家族に言い置いてニネは自室に入ると、手早くベッドの中にクッションを二個ほど縦に並べて詰め込んだ。
一見、自分が毛布に潜り込んで眠っているかのように見せるためだ。
机の引き出しの中から、去年アーウィンが買ってくれた懐中電灯を取り出す。電気で光る「電灯」というものはまだ一般的ではなく、懐中電灯も数年前に発売されたばかりの珍しい品であった。
ニネは、懐中電灯の電源スイッチを動かして明かりが点く事を確認すると、それを握りしめ、そぉっと部屋を出る。
そろりそろりと廊下を歩く。1階から人の話し声が聞こえ、ときおりルイズの笑い声が響く。他の家族はまだ食堂で談笑しているようだ。外へ続く廊下は食堂とは反対方向だ。みんなが食堂にいる今なら、家を抜け出す好機だ。
ニネは足音を立てないように、それでも急いで、家を出た。
外に出ると、ほんの少し夜風が冷たかった。その冷気はニネの気持ちをより一層奮い立たせる。
さあ、これからちょっとした冒険が始まるのだ。
自然と口許に笑みが広がる。
ニネは意気揚々と、港に向かって駆けだした。
待ち合わせ場所は、魔法船が停泊している場所から少し離れた所にある倉庫の陰。ここなら、魔法船の前に張り付いているであろう監視員からは見えない。
待ち合わせ場所に着くと、既にマークにレオ、ジェスがニネを待っていた。
レオは、まだ火を灯していないランプを手に持っていた。
そして、何かあったときの武器のつもりなのだろう、マークは箒を、ジェスはテニスラケットを持っていた。武器としては心許ないものばかりだが、何も持たないよりはマシなのかもしれない。
「みんな早いわね」
「だってさー、家にいると落ち着かなくて」
「早く船に入ろうよ」
男の子達は、探索が楽しみで早くに集まってしまったようだ。
「様子はどう?」
三人に訊きながら、ニネは倉庫の壁の陰から魔法船を窺う。
「監視員は一人きり。他に人の気配はないよ」
ジェスが説明する。
「予想通りね。ところでレオは例のもの、持ってきたの?」
ニネが訊くとレオはうなずき、ランプを持っていない方の手に提げた籠を持ち上げる。その中で、一対の眼が輝いている。
そして、籠の中からみんなの気が抜けるような、「ふにゃん」と呑気な鳴き声がした。
「ちょっと、何を持ってきたのよ」
問い詰めるニネに、レオはたじろぐ。
「え、だって、何か監視員の気をひける物を持って来いって言われたから」
レオが籠を床に置いて蓋を開けると、中からのっそりと茶トラ模様の猫が歩み出る。
「ふにゃん」
そのでっぷりとした体躯がニネ達の不安をさらに煽った。
「大丈夫、この子は僕になついているから、僕の言うことを聞いてくれるよ」
レオは、
「よし、チャッピー、行ってこい!」
と、茶トラ猫チャッピーのお尻を軽く押す。
が、チャッピーはごろごろと喉を鳴らしてレオの脚にその身をすり寄せるだけであった。
「あ、あれ?ホラ、行けってば。行ってあの監視員の気をひいてきてくれよぉ」
「確かに、よくなついてはいるわね」
ニネは呆れた表情でそう言うと、レオの足下にしゃがみこみチャッピーの喉を撫でてやった。チャッピーに罪はない。
「レオ、絶対大丈夫って言ったじゃんか」
ジェスがレオを肘で小突く。
「だ、だって」
「責任とってレオがチャッピーの代わりに行って来いよ」
と、マークが監視員のいる方向を指さした。
「えぇ〜、やだよ、そんなの」
レオが情けない声を出した。
計画は失敗かと思われたその時、遠くから「うわぁっ」と声が聞こえる。
「何かしら?」
ニネは素早く立ち上がる。その声が魔法船の方から聞こえてきたものだったからだ。
四人は壁の陰から顔を出し、様子を窺った。
「あっ」
それぞれに息を飲む。
人影が三つ、もつれ合っている。そのうちの一つは監視員の影だとわかった。だが、あとの二つは?
三つの影は怒鳴り合いながらもみ合い、そのうちに監視員の影が倒れる。
「ああっ」
レオが叫ぶ。
「ねぇ、なんかマズいんじゃない?」
ジェスが言い、ニネは頷いた。
監視員を倒した二つの影は、魔法船へと侵入する。
「あの人たち、魔法船に!」
監視員の影もすぐに立ち上がり、二つの影を追いかけて魔法船に入っていった。
「ニ、ニネ……」
意見を窺うようにマークが言うと、ニネは当然のようにきっぱりと言い放つ。
「行くわよ」
ニネの瞳は怒りできらきらと輝いていた。大事なパパの、大事な船に勝手に侵入するなんて、許せない!
自分たちだって侵入しようとしていたのだが、それはまた別なのだ。だって、ニネはパパの子供なのだから。
ニネの言葉にジェスは頷き、テニスラケットを握りしめる。
マークも震える声ではあったが、
「う、うん、行くよ」
と答える。
「ぼ、僕は……」
レオはまだ迷っているらしいが、
「じゃあここで一人で残っていてもいいんだぜ。あいつらの仲間が来るかもしれないけど」とジェスに脅され、
「わかったよ!僕も行くよ!」
と叫んだ。
ニネ達が船の傍へ駆け寄った時には、既に侵入者も監視員も船の中に入ってしまっており、見える範囲内に人の気配は全くなかった。
魔法船を見上げると、昼間は太陽の光で輝いていた宝石たちは全て夜の闇に凍ったように輝きを失い、しかし船の先端に貼り付けられた巨人の瞳だけは鋭く輝いてニネ達を睨みつけ、不気味な空気を漂わせていた。こころなしか、気温もぐんと下がったように感じる。
ニネは、ぶるりと震えそうになるのをなんとか堪え、波止場と船への渡し板に一歩脚をかけた。
ぎしっと板が鳴る。丁度大きな波が寄せたのか、船が大きく上下する。
「ニ、ニネ……」
レオが心細そうな声を出すが、ニネは意を決して船内へと歩を進めた。男の子たちも、ジェスを先頭としてニネについてくる。最後尾のレオが渡し板を渡りきると、バタンっと大きな音を立て、渡し板が波止場から外れた。
「わぁっ」
四人はそれぞれに悲鳴をあげ、背後を振り返る。
渡し板は船の縁にぶら下がっているが、子供達の力だけでは、板を波止場へ渡すことはできなさそうだ。
「ど、どうしよう……」
レオは泣きそうな声になる。
「もう、行くしかないじゃない」
ニネは懐中電灯を点け、前方を照らす。
甲板上には誰もいないようだ。船内に入る扉は閉じているが、きっと、侵入者たちはこの中に入っていったに違いない。
細かな美しい彫刻の施されたドアノブに手をかける。
「ようこそ」
扉がそう喋り、ドアノブは瞬時に温かみすら有する人の手にかわり、ニネの手を包みこんだ。
「きゃあっ」
さすがにニネも悲鳴をあげ、2、3歩後ずさるとその場にへたり込む。
手を離すと、ドアノブはすぐに元の形に戻った。何の変哲もないドアノブに。
ニネはばくばく鳴る心臓を押さえつつ、
「こ、これが魔法の仕掛け……?」
と呟いた。
「ニネ、大丈夫か?」
ジェスがニネの肩に手をかける。
「も、もちろんよ。あたし、魔法なんて見慣れてるんだから。よくお祖母ちゃんに見せてもらっているもの。今のは、突然だったからちょっとびっくりしただけ」
ニネは、みんなを、そして自分自身を安心させるために言い聞かせて立ち上がる。
すると、ぎぃぃ、っと蝶番を鳴らし、扉が自然と開いた。四人を船内に誘い込むように。
皆がそれぞれに、ごくんと唾を飲み込んだ。
既に帰る道は断たれてしまっているのだ、前に進むしかない。
しかし、扉の向こうに見える薄闇に包まれた船内には、まだどんな魔法の仕掛けがあるのかわからなかった。
そろりとニネは船内を覗き込んだ。埃っぽい匂いがする。
その中で、微かな歌声が聞こえてきた。
「あ〜、あ、あ〜。うん、今日も美声」
女の人のようだ。目をこらしてよく見ると、裾の広がったドレスを着て髪を結い上げた女性のシルエットが確認できた。
だんだん目が慣れてくると、女の人がくるりとこちらを向くのが見えた。
「あぁらお客様〜?今日はお客様が多いわねぇ」
女の人は壁の燭台に立てられたロウソクに火を点けた。
ぽうっと辺りが明るくなる。細面で神経質そうな女性の顔が浮き上がる。
「うわ」
ニネのすぐ後ろにくっついていたジェスが小声で悲鳴を上げる。
女性の足元から長く伸びる影は、8本脚の蜘蛛だった。
「あらヤダぁ。そんなにジロジロ見ないでぇ」
ニネ達の視線に気付いて、女性は恥じらうように両手で顔を覆った。
「あの……っ」
意を決してニネが口を開く。
「さっき来た人達は、どこに行ったの?」
蜘蛛女はにまっと笑って、背後の壁を指差す。そこには扉が二つあった。
「こちらの扉へどうぞ」
蜘蛛女がぱちんと指を鳴らすと、右側の扉が自然に開いた。
ニネたちは一瞬ひるんで後ずさる。蜘蛛女はにやにや笑ってこちらを見ている。
「あらどうしたの。行かないの」
その顔を見れば、ニネたちをからかっているのがわかる。それは、ニネのプライドをいたく傷つけた。
「行くわよ」
ニネは一歩を踏み出した。
「ちょっと、ニネっ」
ニネは男の子達が止める声も聞かず、すたすた歩いて蜘蛛女の前を通りすぎる。男の子たちも仕方なくそれについていく。
扉の前に立つと、薄暗い廊下の向こうからひんやりとした空気が流れてきて、ニネの頬を撫でた。
「行ってらっしゃあい」
べとっと絡みつくような蜘蛛女の声に続いて、扉が閉まる音がした。
真っ暗。ニネは懐中電灯の明かりを点ける。
「行き止まり?」
廊下のその先には、予想よりもずっと近くに壁があった。
「一見そう見えて、実は隠し扉とかがあるかもよ」
ジェスが進み出て、正面の壁に触れようと手を伸ばす。
「待ってっ」
マークの怯えた声がジェスの手を止めた。
「そ、そこ見て」
マークが指差す先は、壁に設えられた通風口。真っ暗闇のそこに、蠢く8つの光る点が見えた。
「ジェス、早く戻ってきて」
ニネが言うまでもなく、ジェスは転びそうになりながらもニネたちのもとへ駆け戻る。
「戻りましょう」
くるりとニネが踵を返すと同時だった。今まで足元にあった床が、すぽんと消え失せた。
「きゃっ」
一瞬の浮遊感の後、急速に降下していく嫌な感覚が体に立ち上る。
しかし、それも束の間。
ハンモックの上に落ちた、とニネは思った。背中に網目状のものが当たる感触がする。ニネ達は薄暗闇の中、微かに光る細いロープで編まれたレースの上に落ちた。
「もしかして、蜘蛛の巣なんじゃない」
光る細いロープをつまみ上げてレオが言う。そのロープは粘着性と弾力性に富んでおり、レオの推測も全く外れているわけではなさそうだ。
落とし穴いっぱいに張り渡された蜘蛛の巣。そう気付いてニネ達は慌てて起き上がろうとするが、蜘蛛の糸が体にくっついてうまくいかない。蜘蛛の巣は4人の子供達の重みで大きくたわんではいるが、壊れる様子はなさそうだ。
そうこうするうちに、頭上にニネ達を覗き込むいくつもの頭の影が現れた。それぞれ8つずつ、目が光っている。
「まずいっ」
「この糸、どうにかして切れないの?」
すると、ジェスが蜘蛛の糸をくるくるとテニスラケットに巻き付け始めた。
「多少は伸びるんだろうけどさ、きっと限界があるだろ?こうやって糸を引っ張っていけば、そのうち切れるんじゃないかな」
「そ、そうだね」
マークも自分が持っている箒に糸を巻き付け始めた。
頭上からニネ達の様子を窺っていた蜘蛛のうちの1匹が蜘蛛の巣に脚をかけた直後、ぶつんと音をたてて糸が切れ、巣に若干のほつれが生じる。
「やった!」
「みんな一箇所に集まって!」
蜘蛛の糸が体の自由を奪っているため、4人は転がるようにしてなんとか巣がほつれた場所に集まる。
さすがに子供4人の重みがあれば、巣のほつれはどんどんと広がっていく。
床に落とされた衝撃は思ったより少なかった。深さはそれほど無かったらしい。
ニネたちは大急ぎで立ち上がり、頭上を確認する。
巣に脚をかけ悔しそうにこちらを見る蜘蛛が見えた。蜘蛛には表情が無いはずなのだが、ニネにはそう見えた。
ぐるりと周囲を見渡すと、一箇所、通路が開いているのを見つけニネたちはそこを目がけて走り出す。
通路に入り込み数十歩走ったところで、誰からともなく走る速度を緩めた。
荒い息を整え、体に張り付いた蜘蛛の糸を取り除きながら通路を歩く。
ニネの懐中電灯に照らされた廊下は、よく見ると一定間隔に豪華な燭台が設えられている。
やがてニネ達は革張りの扉に突き当たった。
「開くかしら」
疑問を口にしながら扉を押すが、拍子抜けするほど簡単に扉は開いた。
ぱあっと、周囲が明るくなる。
そこは円形の広間。壁に等間隔に埋め込まれた、人の頭くらいの大きさの宝石が発光し、広間の中を明るくしているのだ。その美しさに、一同は息を飲んだ。
広間の中心には、天井まで届くオブジェが据えられている。
そのオブジェは、無数の歯車が組み合わさって出来ていた。
オブジェの中心には穴が空いており、それは丁度歯車が欠けたような形状で、人間一人がゆうに通れるくらいの大きさなので、さながら歯車のアーチのようであった。
「なんだろう、これ。動くのかな」
4人は歯車のオブジェを囲んで、おそるおそる指先で触れてみたりする。が、オブジェは動かず、指先に金属の冷たい感触があるだけだった。
「なんだか、大きな機械の中にいる気分ね」
ニネが歯車のアーチの下に回り込んだその時だ。
どっくん。
船が大きく振動した。
「え?」
ニネはその場に立ち止まる。ニネの周りが薄紅色に発光する。
ぎぎぎぃ、と音をたて、ゆっくり歯車が動きだした。
いったん動きだした歯車は、後は滑らかに、とくん、とくんと、ニネの鼓動に合わせて動く。まるで、ニネ自身が歯車の1つにでもなったかのようだ。
そして、歯車の作用なのか、天井からゆっくりと白い螺旋階段がネジのように回転しながら降りてきた。
「うわぁ!」
「ニネ、すげえ!」
レオたちが興奮する。けれど、一番驚いているのはニネだ。あまりに驚いて、声もあげずただ目を丸くして、自分の周りでゆっくり規則正しく回る幾つもの歯車と降りてくる階段とを眺めていた。
階段の下端が床に着くと歯車は止まり、ニネの周りの光もかき消えた。
「へぇ〜、すごい仕掛けだなぁ」
ジェスは階段の手摺を撫でる。蔦を象った細工がなされた手摺だ。
「もしかしてニネはこの仕掛け、知っていたの?」
興奮冷めやらぬまなざしのレオに問われて、ニネはぶんぶんと音が出るくらい頭を横に振った。
「知るわけないじゃない」
「で、どうするの?行くの?」
マークが階段を指さす。
広間を見渡す限り進路はこの螺旋階段しか無いようだ。そうなればもう、行くしかない。
「もちろんよ」
ニネは歯車のアーチから抜け出し、螺旋階段の手前に立つ。
螺旋階段は天井を突き抜けており、その先は暗くなっていて見えない。
ニネは、自分自身を元気づけるために心の中で「よしっ」と声をかけて一つ頷くと、階段の一段目に足をかけた。
こつん、と靴底が音を立てる。階段は板状の白い石で造られている。
もしかしたら、登り初めた途端に崩れてしまうかもしれないという不安もあったが、階段は思ったより頑丈だったのでその心配はなさそうだ。
とんとんとん、と一気に数段登ると振り返り、心配そうにこちらを見上げている男の子たちに、
「行かないの?置いていくわよ」
と声をかける。
そう言われて男の子たちは、ジェスを筆頭に次々とニネの後について階段を上り始めた。
天井に近づくにつれ薄暗くなり、上方から湿った空気が流れてくるのを感じる。
マークが言うには、
「おばあちゃんの家の屋根裏みたいな匂い」
だそうで、ニネも、その意見には賛成だった。
とうとう天井まで上りきると、そこはまっ暗な部屋だった。
ニネは懐中電灯で部屋の内部をぐるりと照らす。
部屋は廊下みたいに細長く、左右の壁には大人くらいの高さの木箱がずらりと並んでいた。
後から到着したジェスたちも不安げにあたりを見回す。レオはランプに明かりを灯した。
「もしかして、宝物庫?」
たくさんの木箱を見て、ジェスが弾んだ声を出す。
「そんなに都合いいわけないよ」
マークは反論するが、ニネは
「ありえなくもないわよ。きっと、あの男の人たちはここにある宝物を狙っていたのよ」
と、手近に置いてある木箱を観察しながら言う。木箱の側面には、昼間に見た、船体の外側に描かれている魔法陣のような模様が彫ってある。
ニネは何の気なしにその魔法陣の外側の円を、ぐるっと指でなぞる。すると、薄桃色の柔らかい光が現れ、ニネが指でなぞった後を追った。
ニネは息を飲んで指を引っ込める。この箱も魔法仕掛けだ。
仕掛けを解いたらどうなるのだろう。何が起こるかわからない不安より、好奇心が勝った。
ニネは再び人差し指を木箱の魔法陣にぴたりと付け、なぞり始める。ニネの指の動きを追って、薄紅色の光が動く。
「ニネ。何してるの」
背中から、ジェスがのぞき込む。
「や、やめようよ。何かヘンな事が起きたら怖いよ」
レオがニネの袖を軽く引っ張るが、今更何が怖いものか。人の手に変わるドアノブに蜘蛛女の巣、魔法の歯車を体験した後なら、何がきてももう驚かない。
ニネは魔法陣の一番最後の模様をなぞり終えた。
ぱぁっと、木箱の内部から光があふれ出す。レオがニネの腕にしがみついた。
「わぁ」
4人は息を飲み後退って木箱から離れ、様子を見守った。
それに連鎖し、他の木箱も光を放ち出す。
その光で、部屋の内部の様子が先ほどよりもはっきりと見えた。
木箱が並んだ細長い部屋の一番奥には、一段と大きくて豪華な装飾の施された木箱が鎮座していた。そこだけ玉座のように、滑らかな輝きの赤いカーテンが下げられている。
今や全部の木箱が内部から発光している。
ばんっと音を立て、ニネが魔法陣に触れた木箱の側面が、扉のように開いた。四人は声を上げて飛び退いた。
箱の中身を見て、さらに悲鳴をあげる。
「ひ、ひひひ人っ」
「し、ししし死体っ?」
古風なドレスを纏った女性が、長い睫の瞼を閉じ、眠るようにそこにいた。
しかし、ニネは冷静だった。
「慌てないで。これ、人形じゃない」
その女性の首や手首、指などの関節に継ぎ目が見えたのだ。
「あ、本当だ」
ニネに言われて、レオがほっと肩をおろす。
「何が『死体』だよ」
ジェスはにやにやしてマークを小突く。
「ジェスだってびびってたじゃないかわぁっ」
マークが喋っている途中で隣の木箱も音を立てて開いたため、マークの語尾は悲鳴に変わった。
ばんっ、ばんっ、ばん!
木箱の蓋は次々と開いていった。
中には女性だけじゃない、男性や老人、子供の人形が納められている。
「な、なんか、これだけあると気持ち悪いね」
レオがニネにささやく。
「うん……そうね」
4人は人形の入った木箱から距離をとるように部屋の中央に集まって寄り添った。
一番奥の木箱だけが、まだ開いていない。ニネがその事に気づくと、木箱の蓋に描かれた魔法陣がおぼろげに発光し、瞬いた。
まるでニネを呼んでいるかのように。ニネに、魔法の仕掛けを解けと言うように。
ニネは導かれるままに歩き出す。
「に、ニネ……?」
寄り添う一同から離れていくニネに、ジェスが声をかける。が、彼女の耳には届いていないようだった。いや、届いていたとしても、ジェスの声には彼女を止める力はなかった。
ニネは玉座に鎮座する木箱に正対し、右手を掲げる。魔法陣の輝きが一層強くなった。
その光の瞬きは、ニネの鼓動に呼応していた。とくん、とくん、とくん……。
ニネの指先が魔法陣に触れる。指先に光が生じる。
今度は、ニネが魔法陣をなぞるよりも先に光だけがものすごい速さで魔法陣をなぞっていった。
なぞり終えた時、木箱の中から強い光が溢れ出す。ニネはその光を一身に浴びた。太陽の光のように、暖かさを感じた。
ぱん、という音がして、木箱の蓋が霧のようにかき消えた。
他の木箱と同じように、人形が納められている。
ただ、他の人形とは明らかに違う。間接の継ぎ目がない。肌も人間のそれと同じように見える。よく見れば、もしかしたら顔に産毛すら生えているのではないだろうか。
この一体だけは、本当の人間なのかもしれない。ニネはそう思った。
一見しただけでは女性か男性かわからないくらいの綺麗な顔立ち。背格好からして、年若い男性のようだ。少し癖のある柔らかそうな藤色の髪。白い肌。魔法使いの人形なのだろうか、膝までの生成のマントを羽織り、右手には肩ぐらいまでの高さのある杖を持っている。杖の上端にはいくつかの宝石が埋め込まれていた。
ニネはその人形の整った顔にしばし見とれていたが、
「ニネ、誰か来る!」
というジェスの声に、意識を引き戻される。
ニネが振り返ると、男の話し声と階段を上る足音が近づいてきた。
「みんな、とりあえずこっちに来て!」
ジェス達は部屋の奥に駆け込む。話し声と足音はさらに大きくなる。
「さっきはこんなところに階段なんかあったか?」
「さぁな。魔法仕掛けだかなんだか知らないが、迷路みたいでややこしい」
ニネ達が玉座のカーテンの影に隠れたのと、螺旋階段を上ってきた者たちの頭が部屋の床からひょっこり出てきたのとはほぼ同時だった。
「うわぁ、なんだこの部屋。人形だらけで気味が悪ぃ」
四角い顔をした中年の男が、カンテラで部屋の中を照らして見回す。
後から上ってきた男は顔も体も丸い男で、人形たちを見て、
「でも、随分いい出来映えだし、着てるものも高価そうだぜ。人形と服、バラにして売れば、相当儲けられるんじゃないのか」
と、うかれている。
「ほら、これなんか、でっかいダイヤの指輪をつけている」
一番近くの女性の人形の手をとって大喜びした。
ジェスがニネに、
「あいつら、さっきの奴らだ」
と耳打ちする。
「ど、泥棒だったんだ」
レオがか細い声で言う。
ニネの心に怒りが蘇った。
「あなたたち、何してるのよ!」
ニネはカーテンの影から飛び出した。
「わっ」
「ニネ!」
慌ててニネを止めようとした男の子たちも、勢いでカーテンの外に飛び出してしまう。
ニネは仁王立ちになって侵入者たちと対峙し、彼らを睨みつける。その後ろで、男の子たちが慌てふためいている。
侵入者たちは呆気にとられて
「なんだぁ」
とぽかんと口をあける。
ニネは毅然として言い放った。
「あたしはこの船の正当な持ち主よ」
正確には、「正当な持ち主の娘」だが。
「この船で勝手な事をするのは許さないわ」
侵入者達は、ぷぅっと吹き出した。
「何よ、何もおかしい事なんか言っていないわよ」
侵入者達はひとしきり笑ったあと、四角い顔の男がふざけた口調で言った。
「それじゃあ、正当な持ち主のお嬢さんにきちんと申し入れしましょうか。この船の中にある、金目のものを下さいな、ってね」
「誰があんたたちなんかに」
噛みつかんばかりの勢いのニネであったが、丸顔の男が頑丈そうなナイフを取り出したので、息を飲み込んだ。ナイフの鈍い光はそれだけでニネたちの心に恐怖を与え足を凍りつかせる。
「いいか、大人がコドモに頭下げてお願いしてやってるんだ、わがまま言わねぇで言うこと聞きゃあいいんだよ!」
そう怒鳴ると、丸顔の男はナイフを手近な木箱の側面にどかっと突き刺す。ニネはびくりと体を震わせる。
「うわああああっ」
と叫んで飛び出たのは、ラケットを振りかざしたジェスだった。丸顔の男に向かってラケットを振り下ろすが、軽く払われ、床に倒される。ラケットのガットがナイフで切られていた。どうやら、切れ味は抜群のようだ。
「ジェス!」
ニネの目に、丸顔の男がジェスの襟首をひっつかみ、ナイフをかざすのが見えた。
「ダメぇーーっ」
ニネが叫ぶ。
木箱が2つくるりと回転して、中の人形が転げ出た。
次の瞬間、侵入者二人に木箱がかぽっとかぶさり、彼らを閉じこめるように床に倒れ、さらにその上に人形が覆い被さる。
気のせいか、中に入っていた人形が自ら動いて木箱をかぶせたように見えたのだが、今はそれを確認している場合ではない。
「今のうちに、早く、逃げよう!」
マークがジェスに駆け寄って彼の手を引き立ち上がらせる。
ニネたちは螺旋階段を大あわてで駆け下りた。
半分以上降りたところで、頭上から侵入者たちの怒鳴り声と追いかけてくる足音が聞こえた。
どうやら、木箱から脱出したらしい。
「は、早く!」
しかし、これ以上急いで降りると足がもつれて転びそうだった。
最後の数段を飛び降り、ニネは息をつく暇もなく歯車のオブジェまで全速力で走った。
「お願い!」
そう言って、歯車のアーチに潜り込む。ぜいはあと息を切らせ、その場に座り込む。男の子達もニネの周りに駆け寄り、みんなで両手を合わせて祈った。
どくん。
船全体が再び振動する。
ズズズズ……と音をたて、螺旋階段が現れた時と同じように回転しつつ天井に引っ込んでゆく。
螺旋階段を降りようとしていた侵入者たちは急に足場が揺れたのでぐらぐらとよろけ、手摺にしがみつく。
「お願い、早く……!」
しかし、螺旋階段の動きはニネ達の祈りに反して、とても緩やかであった。侵入者達は手すりにしがみつきながらも、確実に降りてきている。
螺旋階段の下端はすでに床からだいぶん離れていたが、侵入者達はその距離を飛び降り、着地した。
ニネ達の顔に絶望の色が浮かぶ。
侵入者達は意地悪く笑い、ナイフをちらつかせながら、ひとかたまりになって震えているニネたちに一歩また一歩と近寄ってきた。
「大人の世界じゃな、交渉が決裂したら、戦争をするんだ」
「戦争なら、強いヤツが勝ち、弱いヤツは、殺されちゃうんだぞぉ」
丸顔の男が、へらへら笑いながらナイフを振り上げた。ニネはぎゅっと目を瞑った。
もうダメだ、振り上げられたナイフはきっと、ニネか他の誰かに突き刺さる。
ニネが、皮膚を刃先に引き裂かれる痛みを覚悟した時、雷のような音が天井から響いて、閉じた瞼の裏側に光が見えた。
ニネの鼻先を、真上から風が吹き下ろす。
しかし、ナイフが振り下ろされた気配はなかった。
ニネがそっと目を開けると、翻る生成のマントが視界に広がっていた。マント越しに藤色の髪の青年が見える。
人形の部屋の一番奥にいた、彼。
この人はもしかして、本当に人間だったのだろうか?
ニネが辺りを見回すと侵入者の2人は壁まで弾きとばされており、頭や背中を打ったのだろう、体を抱えてうずくまっている。
「……お、お前……」
四角い顔の男がうめきながら青年を睨み、よろよろと立ち上がる。
無表情で侵入者を見据えている青年が口を開く。そこから発される声は、程よく低く、耳に心地良かった。
「この船の持ち主は彼女だ」
そして、杖を持った右手を空に掲げ、
「この船で勝手な事をするのは、許さない」
と、杖を横になぎ払うように振り下ろした。
風が巻き起こり青年のマントを翻したかと思うと、そのまま前方への突風に変わる。
四角い顔の男は、再び壁に打ち付けられた。
「ディ・イーブ・オル・ケイジン……」
青年が耳慣れない言葉を発し、杖を持ったままの右手の人差し指を立て、空に魔法陣を描き始めた。杖に埋め込まれた宝石がちかちかと瞬く。
青年が魔法を発動させる準備に入っていることがわかった。
しかし魔法というものは、確か、発動までに時間がかかるのではなかっただろうか。侵入者もそれを知っているらしく、青年に隙ができた今が好機とばかりに、丸い男が片足を引きずりながらもナイフを掲げて突っ込んでくる。
青年は、ついと視線を丸い男の方に動かすと、呪文の詠唱を続けたまま手の先で杖をくるんと回す。
青年の手の先に小さな光の弾が生まれたかと思うと、きゅんと空気を引き裂いて飛んで行き、ナイフの刃を砕いた。
丸い男は目を見開いて、手の中に残ったナイフの柄と青年とを交互に見る。
青年は先ほどと変わらず無表情のまま呪文の詠唱を続けていた。彼の眼前には、光で描かれた魔法陣がくるくると回っている。
青年が呪文の詠唱を一度区切ると、
「プライソネル」
と唱え、杖の上端を魔法陣の中心に差し込んだ。
その途端そこからぱっと光が飛び散り、それが消える頃には侵入者二名はそれぞれ鳥かごのような光の檻に閉じこめられて、宙に浮いていた。侵入者たちは内側からなんとか檻をこじ開けようと必死になっているが、檻はびくともしなかった。
青年は、一部始終を呆気にとられて見守っていたニネを振り返り、
「どうしますか、マスター」
と問いかけてきた。
「ま、まマスタぁ?」
ニネはきょときょとと辺りを見回すが、どう見ても、青年が「マスター」と呼んだのはニネであるようだった。青年の瞳は真っ直ぐにニネを見つめている。
マスター、って「主人」って事よね……。一体いつの間にそんな事になったのかしら。
慣れない呼ばれ方に困惑しているニネに向かって、青年は相変わらず無表情なうえ落ち着いた口調で、
「彼らを、どうしますか。火にあぶることも、百に切り刻む事もできますが」
と告げた。
その恐ろしい内容に、ニネは大あわてで首を横に振る。
「そっ、そんな事はしなくていいわ!」
「そうですか」
青年がすんなりと掲げていた杖を降ろしたので、ニネはほっと胸をなで下ろす。
「あの人たちは、船の外に追い出してくれるだけでいいわ」
ニネにくっついていたレオが
「僕たちも外に出してよぉ」
と情けない声をあげた。そう言えば、帰り道がわからない。
「わかりました」
青年は頷くと、杖を持った右手で緩やかに円を描いた。
きらきらとした光の粒が現れ、ニネ達に絡みつく。
ニネはふらふらと目眩に襲われた。
その目眩が治まった頃、体が外の風に晒されているのを感じた。
気づけば、ニネ達は波止場に立っていた。海の向こうから朝日が昇っている。
波止場には、晩に船を見張っていた監視員とニネの父アーウィン、それに数人の大人達が集まっていた。
「船の中に侵入した者たちがいまして……追いかけたのですが、どこに行ったのかわからず……」
監視員がアーウィン達にいろいろと説明をしていたが、ふいにニネ達が現れたので、
「わあっ」
と叫んだきり、次の言葉を失った。
驚いていたのは、監視員だけではなくその場にいた大人全員だ。
「良かった!外だ。出られたんだよ」
レオとマークが手を取り合って喜んでいる。
「ニネ!」
急に現れた子供たちの中にニネの姿を見つけて、アーウィンが駆け寄ってくる。
「今、この子たち、どこから出て来たんだ」
「もしかして、魔法?」
「今時の子供たちは、魔法なんか使わないだろう」
大人たちはみな、不思議そうな顔をしている。
「一体何があったんだ?ニネ」
アーウィンの目には、我が娘の身に何か起こったんじゃないかという不安と、夜中一晩こっそり出かけていた事に対する叱咤の色とがないまぜになっている。
「あ、あのね」
何から説明していいのか、そして、謝るタイミングはどこなのか。いろいろ考えて言葉がまとまらずにいると、背後で空気の動く気配がした。
アーウィンの視線がニネの背後に向けられ、ニネもそれに倣って振り返った。
そこに現れたのは、右手に持った杖を掲げ生成のマントを風に泳がせた、藤色の髪の青年。さらにその後ろに、光の檻に捉えられた侵入者たち。
「あっ。あいつらだ、船に勝手に入って行ったのは!」
監視員が侵入者たちを指さす。
それを聞いてアーウィンの表情に険しさが増す。
「パパ、このお兄さんが、こいつらを掴まえてくれたのよ」
ニネが早口で説明する。
「そうです、オレ達、あいつらに殺されそうになったんだけど、この人が助けてくれたんです」
「ジェス!」
パパを心配させるような余計な事を言わないで、とニネはジェスを咎めるが、すでに遅かった。
アーウィンの顔色がみるみる変わっていく。檻の中の侵入者たちは、必死で弁解を始めた。
「違う!殺そうとなんかしていない!脅しただけだ、あれは言葉のアヤだろう!」
アーウィンは、気を静めるために大きく息を吐いた。
「ニネ、君たちがどうしてここにいるのかは、また後でゆっくり聞くよ」
それから青年に話しかける。
「とりあえず、私の船の侵入者を捕らえてくれたことと、子供達を助けてくれた事には礼を言おう。そして、詳しい話を聞かせてはもらえないかな」
と語りかける。
「詳しい……話」
しかし青年は表情の無いままで、アーウィンの言うことを理解していない様子だった。
アーウィンはゆっくりと頷いて、
「そうだ。この侵入者のみならず、なぜ君や娘たちが船の中にいて、侵入者たちを捕らえる事になったのか、その経緯だ」
と、説明した。
パパは怒っていると、ニネは直感した。静かな口調だが、明らかにニネたちがこっそり船の探検に来た事を怒っているし、船の中にいた青年の事も、侵入者なのではないかと疑っている。
「パパ、この人は初めから船の中にいたの。船の中にたくさん木箱があって、その中にいたの」
ニネができる限りの説明を試みたが、却って混乱を招いただけだった。
「船の中にもとからいた?」
アーウィンは怪訝そうに眉をひそめる。ニネは、もっともらしい嘘でも考えれば良かったと後悔した。
例えば、悪い魔法使いに時間を止められて船に閉じこめられていたとか?まるで幼児向けの童話だ。
ニネの想像力では辻褄が合うような話を作り出すことはできなかった。
仕方なしに、ニネは青年に小声で尋ねた。
「ねぇ、あなたは誰なの?どうして船の中にいたの」
すると青年は、突如ダンスを申し込むように深々と頭を下げた。生成のマントの裾が揺れる。
「はい。私はエルオウィーラという名を与えられております」
「エルオウィーラ」
ニネは、その名を確認するように繰り返した。
「さきほど目覚めるまでの過程は記憶しておりません。申し訳ありません」
「なるほど、魔法船は廃船になったとしても、何が潜んでいるかわからないという事か」
アーウィンが唸るように言った。
「この人……エルオウィーラは悪い人じゃないわ。あたしたちの事魔法で助けてくれたのよ」
ニネは必死で庇う。エルオウィーラが魔法を使うという事実は、後ろで光の檻に囚われている侵入者達を見れば疑いようがない。
やっぱり魔法だったのか、信じられないといったざわめきが港に広がった。
その後、侵入者達は街の保安局に引き渡されてからエルオウィーラに檻を消してもらい、ジェス、レオ、マークはそれぞれ、港まで迎えに来た家族と共に自宅に帰った。
皆、親には叱られるだろうが、船の中で体験した恐怖に比べればなんて事はないだろう。
ニネは、魔法使いという存在が現れたためにアーウィンがすっかりニネを叱ることなど忘れている様子で、ほっと胸をなで下ろした。
「さて、私たちもそろそろ家に帰ろうと思うのだが、彼をどうするかだな」
人のいなくなった港で、アーウィンが思案する。
そんなアーウィンをよそに、ニネはエルオウィーラをじっくりと見つめた。
船の中で初めて見た時にも端正な顔立ちだと思ったが、こうして明るい所で瞳を開いている彼は一層目鼻立ちが整って見えた。
ニネはエルオウィーラの正面に立つと、彼の名を呼んだ。
「エルオウィーラ」
「はい」
この綺麗な顔の魔法使いが自分の呼ぶ声に答えた事が嬉しかった。
「まだあなたにお礼を言っていなかったわ。助けてくれて、ありがとう。でもなぜ、あたしを助けてくれたの」
エルオウィーラは静かに答えた。
「私のマスターを助けることが、どこかおかしな事でしょうか」
また、「マスター」と呼ばれ、ニネはちょっとした居心地の悪さを感じた。
「マスターって、あたし、そういうのになった覚え、ないわよ」
「あなたが私を動かしました。だからあなたは私のマスターです」
「動かした?」
ニネは聞き返す。
エルオウィーラの体のどこかに懐中電灯に付いているみたいなスイッチがあって、それを動かしでもしたのだろうか。
「はい。あなたは私の一番大事な歯車です」
あっ、とニネは思った。船の中の歯車のオブジェ。確かあのアーチの下にニネが潜り込んだとき、歯車が動き出した。
あれは、螺旋階段を降ろすためのものだとばかり思っていたが、エルオウィーラを動かす「スイッチ」も兼ねていたのか。
木箱の中に納められていた単なる人形だった彼を目覚めさせたのは、自分。
そう思うと、ニネは彼が大切な宝物のように思えてきた。
「ねぇパパ。エルオウィーラを家に連れて帰りましょうよ」
ニネは名案を思いついたように晴れやかな顔で、アーウィンに提案した。
「えぇ?」
アーウィンは目を剥いた。
「だって、エルオウィーラをこのまま港に放っておくの?あたしの命の恩人なのに。それに、これからだって、きっとあたしを守ってくれるわ。だってエルオウィーラは魔法使いだもの」
「ふぅむ……」
「ね、いいでしょう。パパ、いつも言っていたじゃない、あたしの帰りが遅くなる時が心配だって。そんなときに、エルオウィーラがいてくれたら、きっと心配いらないわよ」
ニネにボディガードをつけることができる。それは、アーウィンにとっても魅力的な話であった。
通常のボディガードなら、全面的に信用する事はできない。が、相手はどうやらニネに服従している様子だ。
「わかった。しかし、ルイズがなんと言うかだな」
アーウィンは、魔法嫌いの妹を思い出した。
「ありがとう、パパ。大丈夫よ、ルイズ叔母さんだってあたしがお願いすればなんとかなるわ」
ニネは表情を輝かせ、エルオウィーラに右手を差し出す。
「さあ、エルオウィーラ。あたしと一緒に帰りましょう」
「はい」
「こういう時は、あなたも右手を出して、握手をするのよ」
突っ立ったままのエルオウィーラにそう教える。
「はい」
エルオウィーラは右手を差し出したが、杖を持ったままだったのでニネの手をとる事ができなかった。
「もう。杖は左手に持てばいいじゃない」
ニネが苦笑する。
「わかりました」
エルオウィーラは杖を左手に持ち替えようとする。
が、彼の左手は動かなかった。腕も持ち上がらなかった。指先だけが、なんとか頑張ってぴくぴく動いただけだった。
思い返せば、船の中で魔法を使っていたときもエルオウィーラは右手しか動かしていなかったではないか。
「エルオウィーラ。あなた、もしかして、左手が動かないの?」
「どうやら、そのようです」
あくまで落ち着いた声で、エルオウィーラが答えた。
「ふぅむ、なるほど」
アーウィンがエルオウィーラの左手を眺める。
それは商品を品定めする目だった。アーウィンはエルオウィーラが欠陥品であると判断してしまうかもしれない。
咄嗟にニネはエルオウィーラの左手を両手でとり、
「大丈夫よ、左手くらい動かなくたって、エルオウィーラは魔法も使えるんだから。何の問題もないわ」
と明るく言った。
「だけど、ニネ……」
アーウィンが何かを言いかける。しかし、ニネは強く言い返す。
「いいでしょう。パパ。あたしが、エルオウィーラと一緒にいたいのよ」
アーウィンは、やれやれといった様子で息をついた。
「わかった、エルオウィーラも一緒に、家に帰ろう」
もともとは、アーウィンが買い受けた船の中にいた魔法使いだ。ここで放り出すのも無責任だろう。
アーウィンの答えは、ニネを喜ばせた。
BACK
NEXT
INDEX