車というものは、自分が運転する方が落ち着くと言う人は多いと思います。他の誰かが運転する車に乗ることは、時としてとても怖いものであったりします。
運転手がよく知っている人であれば、まだ安心できるかもしれません。しかし、それがまったく見知らぬ人だとしたら?
ありますよね、まったく見知らぬ人が運転する車に乗ったこと。そんな車が、今回のお話の舞台です。これから乗ろうと考えている方、もしかしたらこのお話は読まないほうがいいかもしれません。
得てして、縁起の悪い話は実話になったりするものですから……
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ビルを出ると、すでに空の色は青から黒へと、光源は太陽からネオンへと移っていた。おまけに雨まで降り出している。
梅雨はすでに明けたというのに。ついていない。手持ちの鞄の中を漁ってみたが、折りたたみの傘はやはり入っていなかった。これからは持ち歩く癖をつけたほうがよさそうだ。
晴れない心のまま、私は仕方なく小走りに雨の夜道に飛び出した。
顔に張り付いてくる生暖かい水滴を拭いながら、つい先ほどまで会っていた商談相手の顔を思い出し、さらに私は気分が悪くなった。自慢話を延々と聞かされながら、卑屈な笑いを顔に張り付けて頷くしかない自分にも腹が立った。転職は今まで何度も考えたが、今のご時世働けるだけでも幸せだと思わなければならないのかもしれない。だが、大学時代に考えていた仕事のイメージと現実はあまりにかけ離れていた。
ついていない時というのは、とことんついていないものなのだろう。雨足はさらに強まり、地面やビルの壁に雨粒がぶつかる音が響き始めていた。
冗談ではない。鞄の中にはつい先ほど、胃を痛めながら判を押してもらった契約書があるのだ。慌てて近くにあったビルの電話ボックスに駆け込んだ。他にもこの場を狙っていた人がいたようで、私が先に入るのを見て悔しそうに去っていく背中が何個か目に入ったが、見てみぬ振りをした。どうやら、私も営業という役職についてから、ずうずうしさが身に付いているのかもしれない。
五分待った。雨は激しさを増した。
十分待った。雨はやみそうにない。
十五分待った。私は根負けした。すでに時計は八時を回っている。家に帰って飯を食って寝て、明日も六時には起床しなければならない。そして、ここから家までは一時間では済まない距離がある。電車はまだ動いているものの、これでは駅までたどり着くのも困難だ。
この辺にバス停はあっただろうか。記憶から引き出そうとしても、この辺りの担当になったのは最近のことだったのでよく思い出せなかった。
仕方ない、タクシーで行くか。
経費で落とせるだろうか。そんなことを考えながら携帯を取り出し、ふと思って元の場所に戻す。せっかく電話ボックスにいるのだ、たまには公衆電話を使うのもいいだろう。そう思い、私は十円玉を入れ、電話帳をめくりながら番号を正確に押していった。
ボックスを叩く雨音が、さらに激しくなっていた。
車に乗り込むと、少しだけ緊張がほぐれたように思えた。あの狭い電話ボックスの中に何十分と立っていたのだから、当然かもしれない。やはりこの雨でタクシーも賑わっているのだろう、電話をしてから来るまで十分以上待たされてしまった。
「駅までお願いします」
運転手の返事はなく、ドアが閉まって車が走り出した。無愛想だな、と思いながら、ポケットから煙草を取り出し、はたと気づく。
「あ、煙草吸ってもいいですかね?」
今度は「ええ」と小さな声が聞こえた。遠慮なく、私は少し湿ってしまった煙草に火をつけた。最近は、どこでも喫煙者の立場は弱い。
そんなことを考えていた時、視界を懸命に動くワイパーが横切った。滝のように打ち付けてくる雨を必死によけている。なぜか、そのワイパーに髪の毛のようなものが張り付いているかに見えた。
気のせいだ。目を凝らしてみると、ただ単によけきれなかった水の流れがワイパーに繋がっているだけだった。背景の暗闇のために見間違えてしまったようだ。疲れているんだな。私は座席に深く腰を下ろした。
煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。慣れ親しんだ味とゆりかごのような心地よい振動が、疲れきった体の奥から少しずつ睡魔を引きずりだす感覚。そのまま身をゆだねてしまおうかと考えた途端、全ては急カーブのせいで現実へと引き戻された。
荒い運転だな。思うが、口には出さない。たかが数分の付き合いだ、少しくらい我慢してでも関わらない方がいいだろう。
再び座りなおして、ふと、疑問がわいた。
あの場所から、駅まではまっすぐの道だったはずだ。なぜ、曲がる必要がある?
窓の外に目をやると、ネオンで照らされた街並みは記憶にないものへと変わっていた。
「なあ」
私は黙々と運転を続ける男に声をかけた。
「なんで曲がったんだ。駅まではまっすぐだろう」
答えているつもりなのだろうか、口元がごにょごにょと動いているが、はっきりと聞こえない。
「なんだって?」
「……通行止めだったんですよ」
「通行止め?」
「ええ。事故のようでした。パトカーやら救急車やらが集まっていて。結構大きな事故だったみたいですよ」
なんとなく私は来た道を振り返ってみた。すでに曲がった交差点は遠くなり、はっきりと見えなかった。
あまり金額がかさむと、経費で落とせなくなってしまう。そんなことを心配していると、再びタクシーがスピードを落とし曲がった。
おかしい。とっさに周囲を見渡すが、今度は事故でもなんでもない。普通の交差点を、普通に左へと曲がった。さっきも左に曲がったというのに。
「おい、これじゃあ駅に着かないだろ。今のところは右だろう」
「……」
「聞いてるのか」
つい、口調が荒くなる。仕方ない、とでもいうように、男はぼそぼそと話し始めた。
「見えるんですよ」
「見える?」
「ええ。人が歩いているんですよ、道を。だから仕方なく人がいない道を進んでるんですよ」
人? 人などいただろうか。たとえ、横断歩道を歩いていたとしても待てばすむことではないか。
そんな雰囲気を悟ったのか、男はため息をつきながら
「違います。道の真ん中に立って、私のほうを見ているんですよ。ほら、ここにも」
そう言って男はハンドルを切った。曲がる瞬間、ヘッドライトに照らしだされた前方に意識を集中させたが、そこには暗闇の虚空と対向車のヘッドライトの群れ、そして降り続く雨粒が浮かび上がっただけだった。
背中と服の間に氷が滑り込んだかのように、寒気が私の体を通り抜けた。
バックミラーも、暗闇のため車の主を映し出すことはない。水たまりを踏んでいく音だけが車内に響き、さらに沈黙を重くしていた。
「いや、まあ、気をつけてくれればいいよ。事故なんて起こされたらさすがに困るからね」
嫌な雰囲気を紛らわすかのように明るい声で喋ってみたが、男は返事をせずにさらにアクセルを踏んだ。
このまま道を行けばどこに着くんだったかな。そんなことを考えているうちに、次第にビルはマンションに変わり、家に変わり、やがて山道のように道路の幅は縮んでいった。
「おい、たしかこの道を右に行けば駅があるはずだ」
嫌な予感がして、私は運転席につかみかかるようにして訴えたが、男は私の声を無視し、さらに細い道へと進んでいく。
「ちょっと待て」
メーターはすでに三千円を越えていた。これ以上、どこに連れて行かれるかさえ分からない車になど乗ってはいられない。
「戻れ、戻るんだ」
「駄目です」
初めて、男のきっぱりとした声が聞こえた。
「もう、戻れません。後ろから追ってきてるんですよ」
その言葉に、振り返る。私には、暗闇の中、道の両端にはえている木々以外の影を見つけることはできなかった。しかし、男は確信を持っているようで、必死になってハンドルを動かしていた。
道は次第に舗装が剥がれてきたようなでこぼこ道へと変わり、車は時折飛ぶように跳ね回った。そのリズムに合わせて、私の体も上下に動く。
「いい加減にしてくれ」
これ以上振り回されるのは御免だ、と思った瞬間、急ブレーキがかかり、私の体は助手席に突っ込むようにして止まった。
今度はなんだ、と叫ぶ前に、男は怯えたようにフロントガラス越しに何かを見つめて呟いた。
「くそっ、もうこんなところまで」
体を起こしつつ、前方を見る。やはり、そこにはただ闇があるだけだった。
「いい加減に成仏してくれっ」
荒い口調で言うと、男は急激にアクセルを踏み、走り出した。道のないところへ。
私は焦ってドアを開け、まだ雨が吹きすさぶ外に身を投げ出した。地面にぶつかる衝撃に一瞬息が止まると同時に、激しい落下音が聞こえた。
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「いやー、あんときは大変でしたよ。鞄を車の中に忘れていたけど、そんなこと思い出すこともなく、転びながら泥だらけになりながら近くの民家まで走りましてね。結局ダム湖に落ちちゃってたんですよ、そのタクシー」
私は前方に注意を払いながら、後ろの座席に乗っている客に向けて口を動かした。タクシー乗務員を始めてからというもの、私は昔の思い出話のようにして客に話すことがたびたびあった。あまり縁起の良い話ではないのだけれど、面白がって聞く客も少なくはない。
「結局ね、それで契約書紛失しちゃって。一応再度契約は交わせたんですけど、色々あって首になりまして。この不況じゃあ、この職にありつけただけでも幸せなのかもしれませんね」
一人で喋りながら、何か違和感を覚えていた。あいづちの一つくらいあってもいいのだけれど。このような話が苦手な人なのだろうか。
外はすでに暗くなり、雨も降り出してきている。ワイパーの速さを一段階上げて、私はバックミラーを見た。
「あれ?」
いつの間にか、後部座席にいたはずの中年の男の客は見えなくなっていた。
「お客さん?」
呼んでみても返事はない。
「お客さん?」
おかしい。スピードを落としながら、後ろを振り向いたが、後部座席にはあるべき人影がなかった。ただ、少しだけ座席が濡れているようにも思える。
その瞬間、鈍い音と共に嫌な衝撃が車に響いた。慌ててブレーキを踏むと、左前輪が何かを踏んだように持ち上がり、同時にごりっという音が聞こえた。
慌てて車を降りると、そこには黒髪の女性がタイヤの下敷きになっていた。
やってしまった。
焦りが焦りを呼び、呆然としているうちに、いつのまにか私はアクセルを踏んでいた。とどめとでも言わんばかりの鈍い衝撃を体全体で受け止めながら。
そして、私も人影が見えるようになった。
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この人が同じ運命を辿ったのかどうか。それはまた別の話といたしましょう。
見知らぬ人に命を預ける。そうしながら、金を払う。タクシーに限らず、乗り物というのは上手い商売だとは思いませんか。
さて、そろそろ私も帰るといたしましょうか。
おや、向こうからタクシーが来ます。久しぶりに乗ってみるのも面白いかもしれませんね。
すいません、駅までお願いします。
しかし、運転手さん。貴方、顔色悪くありませんか?
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