現場写真



 本当は何の変哲もない空き事務所だった。
 5年ほど前まで、個人経営の小さな印刷事務所があったと記憶している。この不景気だ、事務所は畳んでも建物本体の買い手がつかなかったのだろう。
 一応は元の事務所経営者の所有となっているのだろうが、当の経営者が夜逃げでもしてしまったのかもしれない、この建物の管理状況は杜撰であった。出入り口の施錠はいつの間にか壊れていた。
 だから、島川みたいな男が自由に出入りし、都合良く利用することが出来たのだ。
「へぇ、ここがあなたの事務所になるのね」
 若さを見せつけるように露出の高いワンピースを着て、ヒールの音を響かせながら奈々穂が無人の事務所内をぐるりと見回した。
「そうだよ。一月後には改築工事が始まるんだ」
 島川は臆さずにそう応えた。嘘のうまさだけは、子供の頃から自信があった。
 また、嘘が得意だからこそ、こんな、魅力を体の裡から放出しているようないい女を恋人として連れて歩けていたのだ。
 大学在学中に司法試験をクリアし、近々個人の法律事務所を立ち上げる予定なのだ。
 例えばそんなプロフィールを他の男が飲み会で吹いたところでだれが信じるだろう。ところが、島川の舌にかかれば、本当の事のように聞こえてしまうのだ。
 だが、所詮嘘は嘘。いつまでたっても表れない実体に痺れを切らし、いずれは虚とばれるのだ。
 今までなら、嘘つき呼ばわりされてそれでおしまいだった。
 けれど今回は違う。
 奈々穂の親に資産があるのを良いことに、事務所設立を援助して欲しいと500万円を出させている。
 逆立ちしようが、地球の裏側に回ろうが、そんな金は島川からは出てこない。
 返せと言われたら、そして裁判を起こされでもしたら。
「うまくいくといいね、事務所」
 そう言って振り返った奈々穂の笑顔は瞬時に驚愕に変わる。見開いた彼女の瞳には、必死の形相で鉄パイプを振り下ろす島川の姿が映っていた。
 そしてそれが、彼女がこの世で見た一番最後の映像だった。


 近所のコンビニエンスストアに設置された防犯カメラに島川信史と清水奈々穂が並んで歩いている姿が記録されていたことから、島川は重要参考人として警察署へ任意同行され、その1時間後には犯行を認めた。
 犯人逮捕により、捜査本部はにわかに忙しくなる。
 刑事課は人手が足りぬと他課へ人員の貸し出しを要求するが、どの課も自分の課の人手が少なくなるのは御免であった。警察学校を出てすぐの者が配属される地域課では、自分の課で戦力にならない新人を選んで捜査本部に貸し出した。
 前村も、そんな新人の1人である。
 前村の19年間の人生の中で、殺人事件など起こったことはなかったし、自然死以外の死に関わることなど初めてのことであった。彼の胸には、好奇心による興奮と、それから自分が目の当たりにしたことのない死に対する恐怖とが半々に存在していた。
「新人その2、これ3部コピーして謄本表示しておいて」
 20代前半にして巡査部長の先輩刑事が前村に1束の書類を手渡す。先輩はそのまま忙しそうに書類棚に戻る。
 前村の他に新人は3名、うち女性は1名が捜査本部に狩り出されていて、それぞれ「新人その1」「新人その2」「新人その3」「女の子」と呼ばれていた。前村は、この通り、「新人その2」と呼ばれている。
「はい、わかりました」
 おそらく聞いてはいないだろうが、先輩の後ろ姿に律儀に返事をしてから、前村はコピー室へ向かった。
 廊下を歩きつつ、書類に目を通す。
 捜査本部で使われる書類を読むことも勉強の一環だから。そう地域課長に言われていた。
 書類の後半部分は写真が貼り付けてあるものだった。
 何の写真だろう。前村は書類の題名に目を通さずに写真から見てしまった。
 だからこそ衝撃が大きかった。
 貼付してある写真は、被害者の発見時の様子。
 本来美しく着飾っていただろう被害者。しかし乱れた髪に崩れた化粧と乾いて張り付いた血液、全身の肌が土気色に変色してしまった今、ひらひらのワンピースは単なるボロ布にしか見えない。
 力なく半開きにされた口。歯列の奥にだらんとした舌。割れた額にこびり付いた血液、そこからのぞく白い頭蓋骨。
 前村は慌てて書類を閉じた。
 それから、これくらい平気にならないと駄目なんだったと自分を叱咤する。
 もう一度その写真を見る。
 しかし今度は、自分が単なる好奇心でこの写真を見ているのではないか、それは死者に対して失礼なことなのではないかという後ろめたさが頭をもたげた。
 いや、好奇心だとかそういうのではない。後学のために見ているのだ。
 その時、後ろから急に声をかけられたものだから彼は飛び上がりそうになった。実際には、びくっと肩が震えただけで済んだ。
「おお、新人その2。ちょうど良かった」
 前村を呼んだ野太い声は今回の事件の指揮する刑事一課長だった。
「はい」
 前村は返事をして課長に向き直る。
「これから現場の引き当てに行くんだがよ、一緒に行くか」
「はい!……あ」
 前村は手元の書類に目を落とす。それに気付いた課長は、
「ああ、それ、コピー頼まれてるんだろ。それ終わってからでいいから。終わったら刑事部屋に集合してくれ」
「わかりました」
 引き当てとは、被疑者を犯行現場に連れていき、どの場所を通って、現場へ向かったか、どの場所で犯行に及んだかをつぶさに説明させるものである。
 前村は急ぎコピーをかけた。
 コピー機から排紙される用紙に、先ほど見た被害者の写真が白黒で印刷される。
 これからこの人が死んだ場所に行くのか。
 前村はぶるりと身を震わせた。


 昼間だというのに、空き事務所内は薄暗かった。窓を全てビニールシートで覆っているせいだ。
「はい……俺はこの裏口ドアの鍵が壊れているのを知っていたので、ここから中に入りました」
 犯人が小さな声で説明する。それに対して引き当て担当の刑事が大きな声を張り上げる。
「で?彼女を先に入れたの?自分は後なの?どっち」
「ええと、俺がドアを開いて押さえてて、彼女を先に通したんだったかな」
「だったかなじゃないの。断言できないの」
「いえ、できます。彼女を先に通しました」
「あ、そう。それから?彼女はどこにどう動いたの」
「ずうっとこう、部屋の中心くらいまで歩いていって」
 犯人が事務所の中心付近を指さしたので、刑事はそこに移動する。
「で、ここであんたは用意していた鉄パイプで殺したのな」
「殺したというか、殴っただけで」
「だから、殺そうとして殴ったんだろ?で、実際彼女、死んだんだろ」
 この後に及んで少しでも自分を有利にしようとする犯人に、苛立たしげに怒鳴る。
「はい、そうです」
 ますます声を小さくして犯人は頷く。
「ようしわかった。じゃあな、お前、自分が彼女を殺した場所をな、ここで殺しましたって、指さして」
「はい」
 手錠と腰縄を括り付けられたまま、犯人が刑事の元へ歩いてくる。そして言われた通りにその場所を指さし、その様子を別の刑事が写真に収めた。
「ちゃんと、彼女に対して悪かったすいませんでしたって、手を合わせて拝んどけ」
「はい」
 犯人はその場にしゃがみ、手を合わせじっと目を瞑った。
 この場所で、あの被害者は死んだのだ。がつんと額を鉄パイプでかち割られて。
 前村の脳裏に、乾いた血液を貼り付けた被害者の写真が浮かび上がる。
 写真では目を閉じていたけれど、死んだ瞬間はどうだったのだろう。眼球が飛び出る程の衝撃だったのではないだろうか。額の割創から見える頭蓋骨は、ばきばきと音をたて陥没していったに違いない。
 そんな事を想像するのは、死者に対して不謹慎だと感じたが、一度考え始めると想像はなかなか消えてくれなかった。
 考えるな、考えるなと思ってもまた、殴られた瞬間の死者の呻き、昏倒する様子、じわじわ流れ出る血液を想像してしまうのだった。


「そろそろ現像終わってる頃だから、ちょっと写真取りに行ってくれないか」
 午後5時。本来公務員の業務はあと30分で終わる。
 だが、捜査本部ともなるとそうはいかない。捜査の目処がたつまで、毎日ほぼ深夜まで署に残る。それでも一応、終業前には部屋の掃除をするし、その役割は新人である前村たちのものであった。
 掃いた塵をちり取りに集めていると、先輩刑事から現像済みの写真を受け取ってくるようにと頼まれた。この署では、捜査書類に使う写真の現像を近所の写真屋に依頼している。写真屋も心得たもので、午後3時までに依頼されたフイルムは、午後5時には現像を終えてくれるのだ。
「帰りにみんなの分、缶コーヒーも買ってきてくれな」
と、万札も渡される。
「ごちそうさまです」
「ちゃんと釣りは返せよ」
 先輩に送り出されて、前村は写真屋に向かった。
 写真屋の店主から渡された写真は、分厚い束だった。
 今日の引き当ての他にも、犯人の所持品だとか、犯人の住宅とか、その他いろいろ、写真に収めなければならないものはたくさんあるのだ。
 前村は写真の束を大事に鞄にしまうと、帰りしなにコンビニに寄り、缶コーヒーを17本買い、重さに絶えながら署に辿り着く。
「お、お疲れ」
 先輩は前村から写真を受け取ると、
「あと、それ皆に配って。みんな〜、休憩しよう」
と、缶コーヒーを配るよう指示して、部屋の他の者に休憩を呼び掛ける。
「おぉ、ごちそうさん」
「ありがとうございます」
 それぞれに礼を言いながら缶コーヒーに口をつけ、雑談を始める。
 しかし休憩と言っても、雑談内容はやはり事件のことになるのだ。
 先輩刑事は他のベテラン刑事数人と、前村が持ってきた写真をチェックしながら休憩している。
「おいこれ、現像ミスかぁ?」
「でも、こっちの写真も同じようになってるぞ。ミスじゃないんじゃないか」
「でも、現場にはこんなものなかったですよねぇ」
 写真を見ていた先輩たちがざわめきはじめる。
 何事かと思っているうちに、前村は呼ばれた。
「おい新人その2、お前も今日の引き当て現場行ったんだろ。これ見てみろよ」
 目の前に、2枚の写真が出される。
 犯人が殺害現場を指差している写真と、その場で手を合わせている写真。
 丁度被害者が絶命したと思しき場所に、光る球体のようなものが写っている。
 先輩がその球体を指して、
「こんなもん、現場にあったか?」
と訊いてくる。
 前村はごくんと唾を飲み込み、
「いえ、ありませんでした。なんですか、それ」
と聞き返した。
「いや、わかんねえから訊いてんの」
 その時現場には存在しなかった、正体不明のなにか。
 それは、それはもしかして……。
 前村の瞼に、死亡した被害者の顔が鮮明に思い出された。思い出したくもないのに。
 この2枚の写真を撮った時、自分は何を考えていた。
 死者が命を落とす瞬間を想像し再現していたじゃないか。
 もしやその思考が、何か良からぬものを呼んだのか。
 ぞわっと寒気が背筋を駈け登った。
「やっぱりアレかね、被害者の霊とかそういうのかね」
 その場にいたベテラン刑事の1人が言った。
「係長そういうの信じるの」
「特に信じてるわけじゃないけど、そういうのがあったって良いんじゃないの」
「しかしこれ、撮り直しするわけにいかないもんなぁ。こんな写真貼った書類送られてきたら検察もびっくりするだろうな」
 ベテラン刑事たちは事も無げにそう話す。
 言葉を失っている前村に、先輩刑事は
「まあ気にするな。シンレイ写真なんて俺も初めてだけどさ、この仕事やってればこういう類の話、あっちこっちから聞くから」
と笑って肩を叩いた。
「それにしても、被害者はよほど島川を恨んでいるんだなぁ」


 前村は自分の不謹慎な想像が死者の魂を怒らせたのかと怯えたが、その後とくに彼の周りで変わったことは起こらなかった。
 先輩刑事の言うとおり、被害者は犯人に対する恨みを訴えるべく、あの写真に現れたのかもしれない。 「犯人を起訴して刑罰を与えることが、一番の念仏だ」
 事件捜査があらかた片付き捜査本部を解散する際、刑事課長はそう言ったが、果たして被害者には一番の念仏は聞こえただろうか。



                                 END

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