「ファイっ、オー!」

 世界の皆に、神の祝福がありますように。
 オリンピックは世界平和の象徴たる式典だ。朝食の納豆ご飯をかき込みながらでも、試合の後に国境を越えてライバルと抱き合う選手の映像などをテレビで見ていると、柄にもなく、そんなことを思ってしまう。
 しかし、オリンピックなどという世界規模の舞台は凡人にはほど遠い世界だ。
 平凡な中学生の大翼(だいすけ)には、2時間後に行われる他校との練習試合程度が身の丈に見合った舞台だ。
「ごちそうさま」
 箸を置いて、立ち上がる。
 歯を磨き顔を洗った後に、ラケットの最終チェック。
 大翼は部活セットの入った鞄の中から、ラケットを取り出し、そのラバーに指を滑らせて状態を確認する。
 亀裂等、なし。粘着力、よし。
 毎日ラバークリーナーで磨いているのだから、そうそう劣化もするはずがない。
 卓球では、ラバーのちょっとした亀裂がコントロールを崩すし、粘着力が悪ければ球に回転がかからず良い攻撃ができない。
 だから、ラバーの手入れは皆必死である。部活関連の費用を全て親に出してもらっている家庭では、少しラバークリーナーの使用を控えて節約しなさいと小言を言われることもあるくらいだ。
 ラケットをケースに収め、「行ってきます」と玄関を出る。
 今日も良い天気で日差しが強い。試合中は窓を開けることも空調をかけることも出来ない体育館の中は、さぞや蒸し暑くなることだろう。


 桐野潤子は年甲斐もなく高鳴る胸を押さえるのに必死だった。
 もうすぐ会える。あの人に。
 教育熱心な両親に育てられ、その期待に応えるべく成長してきた潤子の初恋はたいへん遅かった。
 それだけに、想いは深かった。もうすぐ、その初恋の相手にまた会えるというのだから、この胸の高鳴りは仕方のないことであろう。
「先生、赤です、赤!信号!」
 生徒達に叫ばれて、はっとして潤子はマイクロバスのブレーキを踏む。
「あ、あらごめんね。今日は暑いものだから、ちょっとぼーっとしちゃったかな」
「やめてよー。向こうの学校に着く前に事故なんて冗談じゃない」
「ごめんごめんって」
 そうだ、いくら浮かれていたって、責任はきちんと果たさなければいけない。
 今は中学校の卓球部顧問として、生徒達を無事に今日の練習試合の相手校へ送り届け、さらに勝利させねばならない。
 あの人が相手と言えども、手を抜くようなマネはできない。
 潤子はきゅっと唇を結んだ。


 体育館の中には、ぬるい風が流れている。ウォーミングアップのジョギングを終えれば窓を閉めてしまうので、風の恩恵にあずかれるのも今のうちだ。
「三中〜〜、ファイっ!」「オー!」
 部長のかけ声を先頭に大翼達が体育館内をジョギングしているところへ、相手校が顧問の先生に引率されてやってきた。
「あ、桐野先生、お久しぶりです」
 相手校の顧問は、昨年大翼達の在籍する三中から隣の二中に転勤になった桐野潤子という高齢の教師で、大翼も彼女の理科の授業を受けていた。
 彼女はそろそろ定年だという話も聞いている。
 懐かしさもあってか、桐野は皆に和やかな笑顔を向け、三中の顧問と挨拶を交わす。
 友好的な練習試合になるかと思われたが、挨拶を交わす2名の教師の横をジョギングで通り過ぎる時に大翼は聞いてしまった。
「いやぁ、桐野先生のようなベテランが運動部の顧問とは。若い子達の指導は大変でしょう。まあ、今日のところはウチの胸を借りるつもりでやっていってください」
 という、すっかり上から目線なうえ、暗に年寄りに運動部顧問は無理だと匂わす三中顧問の挨拶と、
「あらあら、経験不足はそちらかと思いますけど。三中の生徒達に悔し泣きを覚えさせる良い機会なんじゃないかしら」
 という、桐野の不敵な宣戦布告を。

 
 いた。いたわ。
 彼の姿を目にした瞬間、潤子の心臓は大きく跳ね上がった。
 いけない、あんまり興奮したら、心不全を起こしそう。
 遅すぎた初恋。そして相手は年下。目の前には教え子達。
 この状況で、潤子の恋心を晒すわけにはいかない。冷静にしなければ。
 それでも、ちらり、ちらりと盗み見てしまう。
 彼が体育館の中をジョギングする姿を。
 杉浦大翼。彼が卓球部だったからこそ、転勤先の学校では、自ら望んで卓球部の顧問になった。卓球のハウツー本を読み漁り徹夜までした時には、自分にまだここまでの情熱があるなんて、と感動すら覚えた。
 あれは、彼が入学してすぐの頃だった。
 植物についての授業で、潤子はいくつかの花を教室に持っていった。
 休み時間に、女子生徒達がふざけて花を頭に飾りはじめ、エスカレートした1人の生徒が、潤子の髪にまで花を挿した。
「せんせー、かわいー」
 はやしたてる女子生徒達。その中に、1人だけ、男子生徒が混じっていた。
 それが、杉浦大翼。
「まじ、かわいーって」
 これまで、年老いていようが若かろうが、男に容姿を褒められたことなどなかった。
 それもそのはず。
 着飾るのはいけません。自分を飾るなんて、自分に自信の無い人間のすることです。異性に隙を与えるような格好をしてはいけません。
 そんな両親の言葉を忠実に実行してきた潤子は、地味で目立たぬ服装ばかりを選び、化粧だってほとんどせずに50年以上を生きてきたからだ。
 初めて耳にした、男性からの賞賛の声。
 胸の真ん中に、色鮮やかな花が咲いた気分だった。
 バカみたいな話かもしれなかった。
 けれど、人間という生物である以上、性愛の対象を見つけてしまうことは、至極当然のことであった。
 それからの日々、彼のクラスの授業がある度に、どんどん心が潤っていくのがわかった。
 しかし、潤子は根っからの教育者でもあった。
 この恋心が知れてはならないという自制。
 人間という生物である以上、理性を保つこともまた義務である。
 愛しあうのも人間ならば、禁欲するのも人間というものだ。
 そして今日は、練習試合とはいえ、勝負の時だ。大翼には申し訳ないが、顧問としての責任も果たし、全力で自校の生徒に勝利をもたらさねばならない。
 むしろ、それこそが大翼に対する礼儀であるとも思える。
 もともとは恋心のために始めた卓球部顧問ではあったが、勉強を重ね、どのような訓練が生徒を強くさせるかを十分に学んだつもりである。
 三中卓球部についても、以前自分の勤めていた学校である。十分に情報を集め、生徒1人1人の分析もさせてもらった。
 潤子は真剣に、勝ちを奪いに行くつもりであった。


「なぁ山村、二中ってもともとはそんなに強くなかったよな」
 卓球台をセッティングしながら、大翼は部長の山村に訊いた。
「まぁね。でも、桐野先生の指導でちょっとずつ強くなってるって」
「桐野先生、卓球できたんだ。知らなかった」
「ウチの顧問はあんまり当てにならないからなぁ、羨ましいよなぁ」
 自分たち三中にしたって、はっきり言ってあまり強い学校とは言えない。顧問教師も、それなりに頑張ってくれてはいるが、もともと卓球には詳しくなかったようで、先任の顧問から引き継いだ練習方法をただ生徒達に実行させているだけであった。
 だからと言って、勝ちたいという欲望が無いわけでもない。
「まあ、顧問が当てにならなくても、俺たちが頑張ればいいだけだし」
「そうだね。相手のリサーチはもう十分だしね」
 台にネットを張りながら、山村が意味ありげに笑った。


 さて、今回の二中と三中の練習試合は、まずは、それぞれ適当に相手を見つけて試合を行い、最後に本物の団体戦と同様の方法で試合を行うことになった。
 初めは試合というよりも適当に打ち合うといった雰囲気で、和やかに、時には笑いを生じさせながら行われたのだが、最後の団体戦になると、生徒達の目の色は明らかに変わった。
 これまでは単なる敵情視察、本当の勝負はここからということだ。
 試合に出る人数は6人。シングルス、シングルス、ダブルス、シングルス、シングルスの順番で行われ、先に3勝したチームの勝ちとなる。
 大翼は4番手のシングルス選手となった。
 なかなか微妙な位置だった。
 先にどちらかが3勝してしまえば、大翼の出番は無い。
 たいてい、先に3勝されないように、1番手が2番手のどちらかに、それなりに強い選手を送り込む。
 さらに、どちらの学校も2勝ずつした場合、勝負は5番手の選手に委ねられるから、5番手の選手もやはり、強者でなくてはならない。
 つまり、4番手というのはあまり重要ではないポジションなのだ、と大翼は思っていた。しかし、そのあまり重要ではないポジションの大翼に、試合の行く末が委ねられる事態に陥ってしまった。
 1番手、2番手のシングルスがまさかの敗退。
 二中は、大翼たちが思っているよりもずっと強かった。
 これが、桐野の指導力なのだろうか。
 かろうじて、副部長の木下と一年の大柳のダブルスが二中を破ったが、こちらにはもう後がない。
「杉浦がなんとか頑張ってくれれば、あとは俺がなんとかするから」
 5番手の山村が大翼の肩を叩くが、大翼には自信がなかった。
「そんな事言ったって。だいたい山村、相手のことはリサーチ済みって言ってなかったっけ。それなのに、なんだよ、この結果は」
 大翼は、山村が二中の選手のことを、その戦法から弱点まで研究したうえでアドバイスをくれるものと思っていた。
 しかし実際には、ただ「頑張れよ」と言って味方を送り出すだけで、何もしてはくれない。
「リサーチは十分だ」
 それでも、そう繰り返す山村に、
「だったら俺がこれから対戦する村野ってヤツの弱点とか教えてくれよ」
と恨みがましい目で訊ねる。
「ああ、あいつの弱点もわかっている」
「だから、それを教え……」
「ほら、時間がないから行ってこい」
 強引に背中を押され、大翼は不満を抱えたまま、卓球台の前に立つ。
 相手の村野は、背が高く、手足の長い選手だった。
 まずはジャンケンでどちらが先にサーブを打つかを決める。
 サーブは2回ずつで交代。先に11点先取したほうがそのセットを勝ち取ることとなり、通常では5セットのうち、3セットを先に取った方が勝者となるが、本日は練習試合ということで、3セットのうち2セットを取った方が勝者となる。
 ジャンケンの結果、村野からのサーブとなった。村野は鞠突きのようにラケットで球を何度か突く。サーブ前の精神統一方法なのだろう。
 それからおもむろに掌に乗せた球をふわりと真上に放り、ラケットを叩きつける。
 しかし大翼の目は、打つ直前に村野の視線が台の右端を見ていたのを捕らえていた。
 きっと、ここに向かって打つはずだ。
 そう思った大翼の勘は当たっていた。
 低く長いサーブは、真っ直ぐに台の右端へ伸びる。大翼の腕はそれに反応し、簡単に返す。
 村野は、サーブを打つ前にラインを目で確かめてしまう癖があるようだ。
 この勝負、いけるかもしれない。
 と思った次の瞬間、村野がとんでもないスピードで球を台の左端に打ち返してきた。
 なんとかバックハンドの姿勢をとった大翼のラケットの1センチ先を球が通り過ぎ、あっという間に後方に飛んでいった。
 村野の長所はこのスピードボールなのか。
 大翼も負けじと責めるが、点差はじわじわと広げられ、8−3の絶望的な点差となった。
「すぎうらぁぁぁ!がんばれぇぇぇ!」
 突如、味方の声援が異常に大きくなった。
 そんなに応援されても、すでに声援で力が出るほどの気力は残っていなかった。
 村野の方は落ち着き払って、またもサーブ前の玉突きを始めた。
「すーぎうら!すーぎうら!」
「そういえばさぁ、村野ってこの前、高二の女にふられたんだって」
「すーぎうら!がーんばれ!」
「いやぁ、村野は付き合っていたつもりらしいんだけどさぁ、彼女の方は全然?そんな気なくってぇ。キスを迫ったとたん、顔を両手で挟まれて真横にグキって曲げられて、その後一週間ムチウチで首動かなかったらしいよ」
「頑張れ!杉浦!」
 声援の合間に、なんだか違う声も聞こえてきているような……。
 玉突きをしていた村野の手元が狂い、球がラケットから弾かれて遠くに飛んだ。
 慌てて球を追いかける村野。
 心なしか、動揺しているようだ。
 球を拾い、台の前に戻ってきた村野がやっとサーブを打つ。
 明らかに球速が落ちていた。しかも、低すぎる。
 ネット。
 引っ掛かった球はころころと台上を転がり床に落ちる。
「ラーッキ!ラッキラッキー!」
 三中の声援がさらに大きくなる。相手がミスをしたときに、ことさらに「ラッキー」を叫ぶことで、相手の戦意を削ぐ、これは重要な戦法の一つなのである。
 相手によっては、少しバカにした感じで言うだとか、バリエーションを変えると尚、効果的とされている。
 ちなみに、あまりお行儀の良いものではなく、本当に強いチームはこんなことはしない。
 ラッキー攻撃が効いたのか、それとも2度目のネットを恐れたのか、村野の次のサーブは、球速も遅く、ライン取りも甘いサーブであった。
 大翼は簡単にそれを打ち返す。続くラリー。ほんの少し、球が浮いたのを大翼は見逃さなかった。
 ぐん、と一瞬腕に力を溜めて、スマッシュ。
 鋭角に決まる。何とか手を出した村野のラケットに当たった球は、大きく弾かれ、村野の後方に飛んでゆく。
 流れは一気に大翼の方へ向いてきた。
 8−3から9−8へ。そして、とうとう、9−11で大翼が1セット目を奪ったのだ。
 コートチェンジの際、大翼の元へ山村が駆け寄る。
「な、相手の弱点はわかっているって言っただろう」
 山村は得意げな面持ちで、耳打ちしてくる。
「弱点って、もしかして、彼女がどうとか言ってたアレか」
「うん」
  胸を張って頷く山村。
「向こうから苦情言われるんじゃないか」
「大丈夫。他の人には声援しか聞こえていないはず。こういうのって、気にしている本人しか聞こえないもんだから。ほら、人混みの中で、誰が何言ってるかわかんない時でも、自分の名前呼ばれたらそれだけは気づくじゃないか。それと一緒だ」
 確かに、大翼にも「彼女がどうこう」と言っていたことはわかっていてもその内容はあまり聞こえていなかった。二中の応援席なら尚更、こちらが何を言っているかわからなかっただろう。
「だけど、問題はそういうところじゃないだろ。こういう勝ち方じゃなく、ちゃんと勝ちたいよ、俺は」
 大翼の文句を聞き流しているのか山村は、
「じゃ、2セット目も軽くとってくれな」
と言って応援席に戻っていく。
 軽く、と言われても、おそらく純粋な実力で言えば、村野の方が大翼より上なのだ。
 1セット目は、大翼の意に添わない精神攻撃でなんとかとれたようなもので、2セット目は上手くいくはずもない。


 潤子にとってはちょっとした計算外だった。
 大翼については特によく研究して分析していたから、村野は大翼に絶対勝てると思っていた。
 そして、潤子はこっそりと胸の内で、ちょっとした賭けをしていたのだ。
 今日の練習試合、団体戦で二中が勝利したら、思い切って大翼に想いを打ち明けようと。
 教師生活も、もう今年で最後だ。
 それであれば、教育者として、そして女性として悔いの無いように終わりたい。
 良い返事なんて端から期待していない。
 いや、もしかしたら一度くらい一緒にディズニーランドに行ってくれたりするかもしれない。
 それでも、100パーセント、良い返事はもらえないだろう。
 いやいやいや、100パーセントと決めつけるのは良くない。90パーセント、いや、まだまだ。ええと、60パーセントくらいにしておこうかな、断られる確率は。
 とにもかくにも。
 たかが練習試合、しかし潤子にとっては自分の初恋を賭けた試合なのだ、村野にはもう少し頑張って貰わねば。
「ほら何やってんの村野ー。ミスが多いよ!大丈夫、普段の練習通りにやれば、あんたは絶対勝てるんだから」
 潤子の檄に、村野は申し訳なさそうに頭を下げた。


 2セット目は、大翼が先に点を得た。
 しかし、コートチェンジを挟んで気持ちの切り替えができたらしい村野が、また調子をあげてくる。
 5−3で今のところ大翼が2点のリード。でもこれが覆されるのは近いだろう。
 リードしているはずなのに、大翼には焦りが出てくる。
「杉浦!よく相手見ろ!」
 山村が声を張り上げる。
 言われなくても、相手をよく見ているつもりだ。
 けれど、試合中の選手には見えておらず、応援している人間には見える何かがあるというのはよく聞く話だ。
 何かを、自分は見落としている?
 わからないまま、大翼はサーブを打つ。続くラリー。球速がどんどん速くなる。
 まずい、そろそろスピードについていけないぞ。そう思った時に、大翼が苦手とする深い場所に球を打ち返され、点をとられてしまった。
 これで点差は1点。
 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせるほどに気は急いていく。
 どうすればいい。次はどんなサーブを打てば点を取り返せる?
 再び、山村の声が響いた。しかも、奇妙なシナを作った声色だ。
「杉浦ー!バックで思い切り突いてぇん!」
 サーブを打とうとしていた大翼は、その場にすっ転びそうになる。
 敵味方、どちらの応援席にもどよめきが広がる。
 中には、何を言っているのかわからないといった様子の1年がいたりもするわけだが、それ以外の者はほとんど、この言葉がいやらしい意味にしか聞こえなかったに違いない。
 村野は口をあんぐり開け、どうしたらいいかわからない顔で突っ立っている。
 相手の応援席で、未婚で処女との噂があった桐野が顔を真っ赤にしているのが見える。
「や、山村?お前何て事言っているんだ!」
 三中顧問が焦って裏返った声で山村を叱責する。
 しかし山村は平然として、
「何って、ちゃんとした卓球用語ですよ」
と言い放っている。
 そこで大翼はピンときた。
 そうか、それだ!
 山村はさらに、口元に手でメガホンを作って
「正常位が駄目なら後背位!」
と叫んだ。今度の言葉は明らかに卓球用語ではない。よって無視。
 だが、確実にヒントは貰った。
 そうだ、村野はこれまで、ずっと順回転の球ばかりを打ってきている。
 その球速が速く、打ちにくい場所にばかり返してくるから点をとられてしまっていたが、よく見ればワンパターンな攻撃ではないか。
 『バック』とはバックスピンのこと、『突く』とは、ツッツキということか。
 ツッツキとは、球にバックスピン、つまり、下回転をかける打法だ。その打ち方が球を突っついているように見えるので、「ツッツキ」と呼ばれることもあるのだ。
 もしかしたら、村野は下回転が苦手なのではないか。山村はそう思ったに違いない。
 大翼はサーブの姿勢を、ツッツキの姿勢に取り直した。
 回転、かかれっ。
 球の下部にラケットを擦るようにしてサーブを打つ。
 今朝ラケットの状態を確認した時、ラバーの粘着力は上々だった。きっと、良い回転がかかるはずだ。
 球速は遅い。すこし球が浮き上がっているようにも見える。強い回転がかかっている証拠だ。
 村野もツッツキの形で球を打ち返す。
 だが大翼のかけた回転は強力だった。打ち返された球は何かに引っ張られるように下方に向かい、見事にネットに引っ掛かる。
「よっしゃあっ」
 味方の応援席からも、そして大翼の口からも声が出る。
 さすがに村野だって全く下回転が打てないわけではないが、次第に大翼の得点が多くなっていった。
 サーブが村野に変わり、村野が順回転のサーブを打ってきても、順回転を下回転に変える打法、カットで村野に得点を与えないようにした。
 そして、点差は10−9。あと1点。
 しかし、ちょっと気を抜けば逆にセットを取られてしまう点差。
 ここは、勝負に出よう。
 大翼はそう思った。
 未だ公式試合では怖くて試していない超下回転を。
 村野のサーブ。順回転。カットでまずは球を下回転に変える。
 村野が仕方なくツッツキで返してくる。
 当然、大翼もツッツキ。今までよりもさらに手首の返しを強くしたツッツキ。
 球は村野側のネット際に落ちてゆく。
 村野が手を伸ばす。
 しかし。
 台に球が落ちた瞬間、球が前方へ進む力よりも、回転の方が勝った。
 球はとんぼ返りのようにその進路を真逆の方向に変え、ネットを越えた。
 つまり、球は村野が打つ前に大翼側に戻ってきたのだ。
 村野の目が大きく見開かれた。
 これはなかなか見られない現象なのだが、強い下回転をかけると、相手が打つ前に自分側に球が戻ってくるのだ。
 こうなった場合、当然、打てなかった選手、村野の失点となる。
 忠実な犬のように自分の手元に戻ってきた球を、大翼はラケットで受け止め、ガッツポーズを決める。
 審判役の生徒が、大翼の勝利を告げた。


 続く山村の試合は、難なく勝利し終了した。
 この練習試合を制したのは三中であった。
 大翼VS村野戦の中盤まで、二中が勝利を収めると信じていた潤子は、すでに告白の言葉を考え、その後の大翼とのデートプランまで綿密に考えていた。
 しかしそれらは全て、大翼と山村の勝利によって打ち砕かれてしまった。
 勉学に励み、教職に殉じて甘い夢など見ることもなくもうすぐ60歳。
 やっと小さな幸せに手を伸ばす勇気を出そうと思ったが、その勇気は挫かれてしまった。
「ありがとーございましたー」
 並んで頭を下げ合う両校の生徒たちの姿を見て、潤子は、これで良かったのかもしれない、と思った。
 自分は一教師として、生徒達を見守っていく命運なのだから。
 それでも。
 ちら、と邪な考えは脳裏をかすめる。
 自分で勝手に決めた賭けなど無視して、大翼に想いを打ち明けてしまおうか。
 首からタオルをかけたまま卓球台の後片付けにとりかかる大翼をながめつつ、そんなことを思ってしまう。
 ずっと好きだったの、と言えば、大翼はなんと答えるだろう。僕もです、とまではいかないだろうが、ありがとうございます、とか、嬉しいです、くらいは言ってくれるかもしれない。
 潤子は、大翼に声をかけようと歩み寄った。
「杉浦く……」
「それにしてもさぁ、村野ってホントに高校生とキスしようとしたの」
 大翼と、共に卓球台を片づけていた山村との会話が耳に入る。
「村野の姉ちゃんの友達だったんだって」
「へー、でも、ちょっと高二は年上すぎるよなぁ」
 潤子は、大翼にかけようとしていた声を引っ込め、卓球台を押して体育館倉庫へ運んでゆく大翼の背を見送った。
 大人になれば多少の年齢差はあまり関係なくなるものだが、中学生くらいの子供達は、実際にはたった2、3年の年の差であっても、「小学生と中学生」、「中学生と高校生」というのは、住む世界そのものが違うくらいの年の差に思うものである。
 だとすれば、中学生と社会人との差はいかほどか。しかもこちとら、定年間近の社会人だ。
 自分のこの想いは、自分の中だけに収めておいた方が幸せなのかもしれない。
 いいわ。悪くない幕切れよ。
 潤子はそう思った。
 恋愛は実らせなきゃいけないなんて決まりはない。
 ただ、じっと心の中で育てて慈しむだけの恋心があったっていいじゃないか。
 こんな片思いの幕切れも、悪くはない。
 潤子はくるりと踵を返し、自分の生徒たちに向かって、
「それじゃ、撤収するよー!」
と声をかけた。


あとがき。
この小説は、「Mystery Circle」様に投稿した作品です。
あれ、もしかしてこれって、私の初のスポーツ小説なのでは?
しかし、スポ根ものが好きな方々からは大激怒されそうな内容ですねぇ。シモネタ有りだし。
だって、真面目なスポーツものって、何か私のカラーじゃないんですもの。
さてさて、今回は卓球のお話ですが、私は平成15年のルール改正以降、卓球をやったことがありません。
一応チェックはしましたが、現在のルールにそぐわない場面があるかもしれません。どうかご容赦を。

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