2、バイトのお誘い

 愛海が家の玄関の扉を開くと、母親が居間からひょっこり顔を出した。
「あら、愛海、遅かったわね。夕ご飯、お友達と食べて来たんでしょ?」
「……食べ損ねちゃった。まだ、何か残ってる?」
 脱いだ靴を揃え、愛海は答える。
「あら、ゴメン。もう何も残ってないわ。そうめんでも茹でようか」
「う〜ん、じゃ、いいや。なんか、そんなにお腹減っていないし」
 愛海は、そう言って、自室へ行くため、2階への階段を登る。
「そぅお?お風呂は沸いてるから、準備できたら入ってね」
 愛海の背中に、母親が言ったので、愛海は、振り返らずに、「うん」と答えた。
 自室に入り、ドアを閉めると、鞄を放り投げ、ふーっと、大きく息をつく。
 明日学校で、狩田由香子に、どんな顔をして会えばいいのか。
 いや、何もなかった様にしておくのが賢明かもしれない。
「お風呂、入ろ……」
 愛海は、タンスの引き出しを開け、パジャマと下着を取り出す。
『水色のパンツとか……』
 先ほど会った男の声が、急に思い出された。
 あの男!もっと殴ってやれば良かった!
 愛海は、手にしたオレンジ色のショーツをタンスの中に投げ入れ、目立たないベージュのショーツと取り替えた。


 竜崎篤は、ローン勧誘の仕事に飽きると、いつも、人目に付かない小路でさぼるのが常だった。
 しかし、今日は、その小路には先客がいた。
 思わぬ拾いものの先客が。
 あの制服と校章は、近所の高校のものだ。
 愛人の家のソファで、くつろいでいた竜崎は、テーブルの上に、ばさ、っと風俗情報誌を投げ置く。
 その隅に、小さく載せられていたのは「キャット・ファイト」の記事。
 コスプレよろしくの衣装を着た女性同士の格闘ショー。
 この界隈には、そういった店は、まだ無い。
 やってみたら、ウケるんじゃないのか?あれだけの逸材を見つけた事だし。
 竜崎は、シャワーを浴びた直後で、バスタオル1枚の姿の愛人に、こう言った。
「なあ、お前の持ってる店1個、改築する気はねぇか。いい案があるんだ」
「ええ?」
 愛人は、驚いた顔で竜崎を見る。
「大丈夫だって、絶対、成功する自信はある」
 竜崎は、自信の無い時だって、同じ台詞を吐くのだか。
「嫌よぅ。そんな勝手なこと、主人が許してくれないわ」
「そこを何とかできないか。俺がこうして頼んでるんだぜ」
 頼む割には、態度は大きい。
「そーねぇ、あんたが、もう、他の女の所に行かないっていうんなら、考えてあげてもいいかな」
 愛人は、上目遣いで笑いながら、そう言った。
「おいおい、自分だって、ダンナがいるんだから、そういう条件はないんじゃないのか」
 すると愛人は、つん、とそっぽを向き、
「あ、そ。なら、知らない。お店なんて、自分で買えば」
 と言う。
「うぅ……。わかった、約束しよう」
 竜崎が渋々その条件を飲むと、愛人は、満面の笑顔で竜崎に抱きついた。


 翌朝、登校した愛海は、教室の隅で、友人と集まっておしゃべりをしている由香子を見つけた。
 由香子は、愛海の顔を見るなり、青ざめた。何か言いたそうにしているが、言葉が出てこないようだ。
 それはそうだろう。自分が陥れたクラスメイトに対して、「昨日はあれからヤラれちゃった?」などと訊ねる間抜けがいるものか。
 愛海は、鞄を机の上に置くと、
「おはよう、狩田さん」
 と、わざとに言ってやった。
 由香子の友人たちは、「ちょっと、どういう事?」と、小声で由香子に囁きかける。
 由香子は、ただ、首を横に振るだけだった。
 愛海は、そんなクラスメイト達を無視して、始業前の読書を始める。
 図書通信の今月のお勧め本コーナーの記事として、何冊かの感想を書かなければならない。実際、多少つまらない本でも、なんとか皆が興味を持ってくれるように書かなければならないのが、面倒である。
 そして、いつも通りに授業が始まり、いつも通りの1日になる……はずだった。
 午後の授業で、窓の外に、あの男を見つけるまでは。
 愛海の教室からは、校門がよく見えるのだが、校門の柱に寄りかかって、ヤツは、いた。
 タバコを吸っては、足元に捨てる。 なんで、あの男が、ここにいるの?
 愛海は、思わず外を凝視した。
「石野。どうした。窓の外にいい男でもいたか」
 甲高い声の英語教師が言うと、クラスにくすくす笑いが広がる。
 しかし、愛海は、そんなものに構っている場合ではなかった。
 いい男どころか、最低の男がいるわよ!
 しかも、その男は、ふいにこちらを見上げ、愛海と目が合ってしまった。
 まずい!と判断した愛海は、急いで視線をそらす。
 私に、気づいた?
 それから、おそるおそる、もう一度、外を見る、と。
 やはり、あの男は、こちらを見ている!そして、愛海に向かって、にやりと笑いかけた。


 あの男が待っているのは自分だ、と思った愛海は、放課後に図書委員の仕事を終えてから、どうやって帰ったらいいものか、電灯を消した図書室で考えていた。
 外はほんのり、暗くなってきている。
 そろそろ、いなくなった頃だろうか。そうだ、いつまでも、あんな所で待っているわけがない。
 それに、今頃、不審者として警察に通報されて、逃げ帰っているかもしれないじゃないか。
 そう前向きに考え、愛海は立ち上がる。
 そして、図書室を出た所で。
「よう、遅い帰りだな」
「!!!!」
 出入り口の引き戸のすぐ横に、その男はいた。
「あ、あんた、どうやって入って来たのよ?」
 愛海はそう言って、再び図書室の中へ避難し、引き戸を閉めようとする。
 すると、男は引き戸に手をかけ、愛海が閉めるのを阻止した。
「夜になればなるほど、学校ってやつは、人が減っていいね」
 と、男が言う。ああ、こんな事なら、早く帰れば良かった。
「大声をあげるわよ」
「昨日の事を、広めて欲しいならどうぞ」
 愛海は、口をつぐんだ。
 男が図書室の中に入ってきたので、愛海は後退する。そして男は、引き戸を閉めた。
 廊下の明かりが閉ざされ、室内は暗くなる。
「場合によっちゃ、あなただって昨日の奴らの二の舞よ」
 愛海はそう言って、鞄を持たない方の手で、拳を構える。
「そう睨むな。今の俺はビジネスマンだと思ってくれ」
 その無精髭で通用するビジネスがあれば教えて欲しい。
 しかし、男は、安い印刷で出来た名刺を、愛海に差し出した。
「何よコレ」
「総合歓楽システム代表取締役、竜崎篤だ。よろしくな」
 いかにも胡散くさい会社名。
 愛海は、その名刺を、ぴしっと叩き落とした。名刺はひらひらと舞って、床に落ちた。
「お前なぁ!出された名刺はその人だと思って、大事に扱うのが社会人の基本なんだぞ」
 と竜崎は言うが、
「私は社会人じゃないし、その名刺があんただって言うなら、破ったうえに燃やしてやっても良いくらいだわ」
 そう、愛海は答える。
 しかし竜崎は、それを無視して、ぐるりと周囲を見回す。
「それにしても、図書室か。お前に似合わないな」
「本は好きよ」
 愛海が答えると、
「辞典でウェイトトレーニングが出来るから?」
 と、竜崎がからかう。
「なんなのよ、あんた!」
 愛海が怒りをあらわにして怒鳴る。
「だから、ビジネスのお話をしに来たんだよ。お前さんが、この、似合わない場所から抜け出すためのね」
 竜崎が、愛海を指差して言う。
「お前、思いっきり、戦ってみたいと思わないか?」
 その言葉に、くらり、と、愛海の心が揺れた。
 戦って、みたい?
「バカな事、言ってるのね……」
「バカでもなんでもいい。お前は、昨日みたいな闘いだけで、満足できるのか」
 くらり、くらり。
 胸の奥から、頭の芯まで、揺さぶられる。
 揺さぶられているのは、本能。
「同類が集まる中で、闘ってみろよ」
 愛海の本能を、見破ってしまった人物は、多分、この竜崎が初めてだ。
 そして、愛海は、頷いてしまって、いた。



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