リュオネスには理解し難い出来事が起こった。
それ以上は何も思い浮かばなかった。
だから。
何もなかったと思ってリュオネスはもう一度床に就いた。そして余計な事は考えまいとした。
しかし眠りに落ちようとする寸前に、またしても馬の嘶きが耳に届いた。
初めは、無視して眠ってしまおうと思ったのだが、2度3度と聞こえると、さすがに気になって眠れない。
「なんだよ……もう」
窓から見える空は相変わらず暗いままだ。星や、薄雲のかかった月もよく見える。
リュオネスは寝具を払いのけて起き上がり、窓を開ける。
そこからは、馬房に繋がれたライトニングがこちらを見上げているのが見えた。
「どうしたんだ、ライトニング」
リュオネスは小声で問いかける。これだけで、ライトニングには充分聞こえる。
ライトニングはぶるるるるっと口を震わせながら、くいっと顎をあげる。その視線は、リュオネスよりもさらに上方に注がれる。
「お前、どこ見てるんだ。屋根?」
リュオネスも窓から身を乗り出してなんとか屋根の上を見ようとした。
すると突然、ばさばさという羽音と共に星空が陰る。
「えっ」
リュオネスは息を飲んだ。上空に見える、その影は。
「竜?」
竜の影は、丘の斜面を下り、街の方へと向かう。
「どういう事だ?」
リュオネスは慌てて部屋の中へ引っ込み、身支度を整える。
竜は、そうそうお目にかかれるものではない。
リュオネスの師、オーシェルメルだって人里離れたところで生活している。
だから、こんな街中で竜の姿を見るなんて、通常あり得ないのだ。
あの竜が、良いものなのかそうじゃないのか、それは今の時点ではわからないけれど、とにかく、異常な事態であることには変わりない。
どのような状況なのか、確かめねばならない。
リュオネスは部屋の片隅にまとめて置いた荷物を見やる。
持っていくべきは、剣と、それから。
「一応、アレも持っていくか」
リュオネスは荷物袋の中を探る。
旅に出る前、オーシェルメルから手渡された護符だ。
「あつっ?」
予想外の温度を感じて、リュオネスは思わす手を引っ込めた。
「何でだ?」
そしてもう一度、荷物袋の中に手を入れ、護符を取り出す。護符は先程と同じように、人肌よりも少し温かいくらいの熱を持っていた。
リュオネスが護符をじっと見つめていると、また、外からライトニングの嘶きが聞こえる。
ゆっくりしている時間はなさそうだ。リュオネスはとりあえず護符を衣服の中にしまうと、剣を手に取り、部屋を出る。
扉を開け、廊下の左右に視線を走らせる。
と、廊下の突き当たりに設えられたテラスに立つ人影に気付いた。
「セテさん」
リュオネスはその人物に駆け寄り、名を呼ぶ。
どうしてこの人は、こんな時間にこんな所にいるんだろう。
そんな疑問が脳裏をよぎりながらも、リュオネスはセテに言う。
「しばらく部屋に戻っていた方が良いです。今、外に……」
リュオネスがそこまで言った時、再び、あの羽音が聞こえてくる。
その方向を見ると、先程街の方角へ飛んでいった竜が、ものすごい速さでこちらへ戻ってきていた。
その体表に光る鱗が確認できるくらいに近づいた時、竜は、がぁっと大きく口を開くと、そこから火の玉を吐き出した。
リュオネスは飛び退きながら両腕で顔を覆う。
身体のあちこちに、細かな木片がぶつかった。
「大丈夫ですかっ。セテさん!」
すぐにリュオネスはセテの身を案じたが、テラスの屋根は吹き飛ばされ、手摺も半壊し、床には大きな穴が空いているというのに、セテは全くの無傷だった。
まるで、竜がセテを避けて火の玉を吐いたかのように。
そして、セテは。
半分残った手摺に悠然と片腕をつき、そして、その傍らには立った今火の玉を吐いた竜が滞空し、まるで飼い猫のようにおとなしくセテに撫でられていた。
セテはゆっくり口角を上げて笑顔を作ると、
「しばらく部屋に戻っていろと?私には、必要ないですねぇ」
と告げる。
「え……?セテ、さん?」
目を丸くするリュオネスの前で、セテはひらりと竜の背に乗る。
「リュオネス君。ディウロさん、キャルスラエルさん、そしてこの街の人々には、全く恨みも無いのですけれどね。まずは、この街を潰させてもらいます。我がシュズルダット帝国が攻め入り易いように、ね」
「どういう事だっ」
リュオネスは咄嗟に剣を抜きセテに振り下ろす。
しかしセテを乗せた竜がふわりと舞い上がり、リュオネスの剣は竜の爪先を僅かにひっかいたに過ぎなかった。
「待てよ、オイっ」
リュオネスが半壊した手摺にしがみつき尚も怒鳴っているところへ、
「何事か!」
と、ディウロの声と足音が聞こえた。
「あ、じじい!」
リュオネスが振り返ると、そこには、すでに鎧を身に纏い戦闘準備の整ったディウロがいた。
「俺もよくわかんないんだけど、何か竜が出て来て、それで……」
説明しているのもまどろっこしくなったリュオネスは、
「とりあえずじじいは中の人の安全を見ててくれ!」
と言い置くと、さっと身を翻し、階下に降りると屋外へ走り出た。
馬房へ回ると、待っていましたとばかりにライトニングが嘶く。
「頼むぜ、ライトニング」
ライトニングを繋いでいた綱を外し、その背にひらりと跨ると、リュオネスは竜が飛び去っていった方向へとライトニングを走らせた。
「待ってろよ、セテ。絶対、街で悪さなんかさせないからな!」
竜の影を追って、ライトニングは滑らかに丘の斜面を駆け下りて行く。
しかし、その距離はどんどんと開いていくばかりだ。
「なんとかならないのか」
そうは言っても、ライトニングだってこれ以上速くは走れまい。
その時、リュオネスの後方から馬の足音と、声が聞こえた。
「私も行きます」
「キャルスラエル!」
おそらくディウロの制止も振り切ってきたのだろう、杖と魔導書を携え愛馬トゥーランドットに乗ったキャルスラエルがそこにいた。
「どうして来たんだよ。危険かもしれないんだ、戻っていてくれ」
リュオネスは竜の動静を気にしながら、そう言った。
「あの竜を街に行かせてはいけないのでしょう?私がいた方が良いはずです」
きっぱりとキャルスラエルは言う。どうしても戻らないつもりらしい。
確かに、リュオネス一人では、竜に追いつくこともできやしない。けど、キャルスラエルの魔法であれば、空を飛ぶ竜にだって攻撃できる。
ここは、キャルスラエルの助け無しには何もできないだろう。だったら、危なくなったら自分がキャルスラエルを守ればいい。
「わかった。でも、無理はやめてくれ」
リュオネスがそう言うと、キャルスラエルは頷き、手に持った魔導書を開いて杖を掲げる。
キャルスラエルが呪文を唱えながら空に魔法陣を描き始めると、リュオネスの剣の輝きが一段弱くなった。
剣だけではない、遠くに見える街の明かり、月や星の光までがその力を弱める。
反比例して、キャルスラエルの描いた魔法陣が際だち輝いている。
周囲の光を魔法陣に集めたのだとリュオネスが理解したのと同時に、魔法陣からいくつもの光の矢が生じては竜に向けて飛んでいった。
キャルスラエルが得意とするのは炎の魔法であったが、どうやらあの竜も炎を得意とするらしいことから、キャルスラエルは炎意外の魔法を選んだのだろう。
キャルスラエルの魔法がいったいどれほど竜に効いたのか、ここからははっきりとしなかったが、セテを乗せた竜がこちら側の戦力に気付き、くるりとその身を翻したのが見てとれた。
と、思うと、遠くにあった竜の姿がぐんぐんと迫ってくる。
ひらり、ひらりと竜は光の矢をよけ、その度に背に乗るセテは器用にバランスを取る。しかし竜は全ての矢は避け切れず、少しずつではあるが、その体表を削っていった。
キャルスラエルの魔法が撃ち尽くされると、翼に2箇所ほど小さな穴の空いた竜が真っ直ぐにキャルスラエルとリュオネスを目がけて急降下する。
「リュオネス、あなたに耐火魔法をかけます」
キャルスラエルが魔導書の頁をめくり、新たな魔法陣を描き出す。
「わかった。後はまかせてくれ」
リュオネスの言葉を理解してか、キャルスラエルを乗せたトゥーランドットが木立の方へ後ずさる。
キャルスラエルが呪文の詠唱を始めると、リュオネスは体表がほのかに熱くなるのを感じた。
そして、急降下する竜の目前に躍り出る。
竜が顎を開き炎を吐き出すが、キャルスラエルの詠唱が続く限り、炎がリュオネスを焦がすことはない。
「らぁあああっ」
炎が吐き尽くされる頃合いを見計らって、リュオネスは剣を振りかざす。
竜の喉を狙った剣はしかし、寸手のところでかわされ、竜の牙が剣に噛み付く。
竜とリュオネスはそのまま数秒競り合うが、隙を見てお互い後方に下がる。すぐさまリュオネスが剣を突き上げたため、竜は一度大きく後ろへ後退する。
そこへ、機を窺っていたキャルスラエルが再度光の魔法を唱え、竜に向かって光の矢が降り注ぐ。
竜の背に乗ったセテは、身をかがめてそれを避けるが、まだ彼には余裕があるように見えた。
「なるほど、魔法使いの方がやっかいそうですね」
セテが言うと、竜は2、3度翼を羽ばたかせた後、方向を変えて木立の間にいるキャルスラエルに向かっていく。
「キャルスラエルっ」
竜はぐるりと回転し、翼と尾でキャルスラエルを守っていた木々をなぎ倒すと、真っ直ぐにその爪を振り下ろす。
リュオネスはライトニングを走らせてなんとかその間に割って入り、竜の掌に剣を刺すが、すぐさま竜は大きく顎を開き、リュオネスの左腕に牙を突き立てる。
竜の強靱な顎で牙がより深く腕に食い込む前に、リュオネスは竜の掌に刺さった剣を引き抜き、竜の眉間めがけて振り下ろす。
竜はリュオネスから顎を離し剣を避けるも、その翼が刃を受けてざっくりと割けた。
「翼がっ」
初めて動揺するセテを、リュオネスが睨みつける。
「俺の目の前でキャルに手出しできると思うな!」
竜の牙に抉られた腕から流れた血が肘を伝いぱたぱたと地面に落ちるが、今のリュオネスに痛みは感じないようだ。
「これで、街へは行けませんね」
翼に大きな傷を負ったせいで空中で均衡を保つことができなくなった竜を見つめ、キャルスラエルが言うと、セテの唇の端に笑みが蘇った。
セテは竜の首筋を撫でると、
「リーザ、君はもういい」
と囁いた。
「え……。リーザ?」
セテの囁きを捉えたリュオネスが眉をひそめる。
その言葉の意味を理解できぬうちに、セテが片手を掲げ、空に呼びかけた。
「おいで、ローザ」
次の瞬間、突風とともに氷の礫がリュオネスを襲った。
「うわっ」
リュオネスは咄嗟に手綱を引き、ライトニングを後ろ足だけで立たせることで陰を作りキャルスラエルを庇う。
風が収まり視界が開けた時には、怪我を負った竜の隣に、新たにもう1匹、竜が羽ばたいていた。
息を飲むリュオネスの前で、セテはひらりと新たに現れた竜に飛び乗る。
「後片付けはきちんとしてくれよ、リーザ」
セテがそう言い置いて、竜は高く舞い上がる。
「待てっ!」
リュオネスが声をあげ、セテを追いかけようとするが、そこへ、炎の弾が飛んでくる。
残った手負いの竜が、よろよろと飛びながらもリュオネスの行く手を阻もうとしている。
「どけろよっ」
既にあまり力の残っていないような手負いの竜に剣を向けることは忍びなかったが、今は仕方がない。
リュオネスは剣を振り上げ竜の顎を狙う。剣の軌道は確かに竜の顎に当たるはずだった。
しかし、得られるはずの手応えが感じられなかった。剣先が空を切る。
「何っ?」
リュオネスの眼前に、すでに竜はいなかった。竜のいた場所には、1人の少女の姿があった。
どさりと地面に落ちた少女は、リュオネスもキャルスラエルも知っている人物だった。
「ええっ、リーザさん?どうして?」
混乱するリュオネスの前で、リーザはゆっくりと起き上がる。
突如現れたリーザの体はあちこちに傷が走り、血が滲んでいた。
リュオネスはライトニングから降り、リーザに手を差し伸べたが、そんなリュオネスを余所に、リーザは怪我など構っていられないという様子で、拳で地面を叩く。
「くやしい……。私にもっと力があれば……」
そしてリーザはふいに顔をあげると、差し伸べられていたリュオネスの手を掴んだ。
「イーコール、あなたの力を、もっとちょうだい」
気迫のこもる眼差しで見つめられるも、リュオネスは
「え?イーコール?何だそれ」
と目を見張るだけであった。しかし、リュオネスには解らずとも、キャルスラエルはその言葉の意味を知っていたようだ。
「キャル、知ってるのか」
「はい、イーコールは竜使いの血と伝えられています」
キャルスラエルの言葉を続けるように、リーザが口を開く。
「その血は、竜に力を与えるの」
リュオネスは混乱した思考を整理する。
イーコールとは、竜に力を与える。そしてリーザは、自分のことをイーコールと呼んだ。どういうことだ。
リーザはリュオネスの左腕に滴る血を指で掬うと、ゆっくりと自分の唇に染み込ませる。
リーザの肌に生気が蘇ってきた。
これで、リュオネスもキャルスラエルも理解した。
リュオネスが、竜に力を与える血を持つ、イーコールであると。
「イーコールが弱き者であれば、その血はただ私たちの糧であるのみ!」
リーザが、衣服の中に隠していたらしき短刀を振りかざす。
「!」
リュオネスもリーザも息を飲んだが、リーザの短刀はリュオネスの胸の前でぴたりと止まった。
リーザは何か異変を感じ取っているらしい。
リュオネスもまた、その異変を感じていた。自身の肌で。
胸元が、やけに熱い。
一体、何なのか。
原因を探る間もなく、胸元から炎が飛び出した。
いや、よく見るとそれは単なる炎ではなく、その中に護符があった。
リュオネスが旅立ちの前に師オーシェルメルから受け取り、先ほど、衣服の下にしまいこんだ護符。その効力は聞かされていなかったが。
3人が見つめる中、護符はぼん、と音をたて、一瞬にして燃え尽きた。それと同時に、リーザの傷がみるみる癒えていく。
「なんてこと……」
リーザは自分の身を抱きしめた。
「こんなに強い力を、感じたことはないわ」
そして、何が起こっているのかわからないといった面持ちのリュオネスに、
「これが、あなたの力だわ」
と告げた。
「へ?」
「護符が、今までリュオネスのイーコールの力を押さえていたのですね」
キャルスラエルがぱらぱらと舞い落ちる護符の燃え残りを見つめて言った。
「もし竜の力より弱いイーコールであれば、たちまち竜の餌食となってしまう。だから、護符でその力を隠していたのでしょう」
「そうなのか?」
リュオネスは未だ半信半疑であった。
「護符は、その役目を終えたのですね。きっと、あなたがイーコールたる血の力に負けない程の人間になったから」
きっと、リュオネスの力は隠しきれないほどに大きくなったのだろう。だから、リーザはリュオネスのイーコールの力に気がついたのだ。
「弱きイーコールは私達の糧となる。けれど、強きイーコールは、私達の主人となる」
リーザの体が鱗粉のような輝きに包まれ、ゆっくりとその輪郭を変えてゆく。
「リーザさん?」
「私に力を与えてくれたイーコール。私はあなたの命のままに従います」
ばさっという羽ばたきの音とともに、リーザの姿が、完全に竜の形となる。
先程リュオネスに切られた翼も元通りに戻っていた。
「それはつまり、セテを止めに行くということか?」
リュオネスの問いに答える代わりに、リーザは空高く舞い上がった。
リュオネスとキャルスラエルは街の方向へ飛んでゆく竜の影を見送る。
「このまま、リーザさんに任せておきますか?」
キャルスラエルが訊く。
リーザであればもしかしたら、セテを止めることができるかもしれない。でも。
「もう1匹の竜……セテは、ローザって呼んでいたよな」
「ええ」
「やっぱり、あれはローザさんなんだろうな」
「だと思います」
リュオネスは、初めて2人に会った時を思い出した。お互いを守るようにしていた2人。
きっと、本当にお互いを大切に思っている家族なのだろう。
「ローザさんとは戦って欲しくない、かな……」
リュオネスが言うと、キャルスラエルも深く頷いた。
「そうですね。私たちも、行きましょう」
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