猫の爪

 あ、三日月だ。

 羽村啓(はむら けい)は、薄闇の空を見上げた。
 細い三日月って、何かに似てる。よく、猫を飼ってる家の中に落ちてる、あれ。
 つめとぎの際にはがれた爪。色合いもこんなんだし。

 一人で帰りのバスを待ちながら、そんなどうしようもない事を考える。
 吐く息が白い。もうそろそろ春だっていうのに、一向に暖かくなる気配はない。
 薄い煙みたいに、白い息は宙に浮いていく。そして、あっという間に霧散する。

 その様子を眺めていた啓は、自身のもの以外にも、白い息がふわり、と宙に消えゆくのを、目の端で捉えた。
 バスを待つ人が、もう一人、増えたらしい。啓は何気なく、そちらを見やる。

 長い、ウェービーヘアの少女がいた。軽くアイラインを引いた瞳が、なんとも可愛い子だった。
 ショート丈のコートの下に見えるスカートは、同じ高校の制服だったが、見覚えはない。 違う学年なのかもしれない。

 こちらの視線に気づいて、少女は啓を見る。目があった。
「寒い……ね」
 と、彼女はぎこちなく笑う。目があったのに、無視はできないし、でも知らない人だしなあ、という心情がその笑顔に表れているようだ。

「あ、うん。そ、だね」
 啓の声も大分ぎこちない。そして、視線を彼女からはずす。しかし、彼女は、まだ啓を見ているようだった。
 あまり見られると、居心地が悪いのだが。

「バス遅いよねえ」
 彼女が、更に話しかけてきた。

「ああ、うん」
 ぎこちない、というか、完全な棒読みで答える。

「寒いしねえ」
「うん……」
「遊びに行こっか」
「はっ?」

 唐突な提案に、啓は問い返すが、彼女は、強引に啓の腕を両手で引っ張る。
「ね、行こ」
「ま、待って。なんで、急に」

 引っ張られるがまま、啓は歩く。
「あたしがそうしたいって思ったから。いいでしょ」
 例えばこちらに、用事があるとか、考えなかったのだろうか。

「いや、でも。俺ら、知り合いじゃないでしょー」
 啓がそう言うと、少女は、ぴたりと歩みを止め、啓の顔を覗き込む。ふわっと、洗髪料の香りがする。

「あなたは、羽村啓。17歳。ほら、知ってるでしょ」
 なんで?なんで知ってるの?
「じゃ、行こう」
 彼女はまた、歩きだそうとする。

「でも、俺は君の事知らないって」
「いいじゃない」
「じゃ、とりあえず、名前は」

 すると彼女が笑顔で振り返って言うには、
「啓の好きな名前で呼べばいいわ」
 ……なんじゃそら〜〜。



 啓と少女は、とりあえず、歩いて10分ほどの場所にある、小さなゲームセンターに入った。同じ高校の人間が、何人かいるので、知り合いに見られやしないかと、啓は内心、ひやひやしていた。しかし。

「わあ、すごい。啓、うま〜い」
 クレーンゲームで人形をとる度、

「ええ、なんでこんな高得点とれるの〜」
 シューティングゲームでハイスコアに名前を残す度、

「わあ、もう一回!もう一回やろ!」
 レーシングゲームで対戦する度、屈託のない笑顔を見せられると、なんかもう、どうでもいいような気になってきた。

 笑うと、きゅっと上がる口角、わずかに盛り上がる頬の筋肉、細くなる両眼、頬に影ができる程長いまつげ。この少女は、全てが愛らしかった。
 もっとずっと見ていたいような程。しかし、実のところ名前も知らない。

「あ、もうこんな時間だ」
 啓は、腕時計を見て言う。
「ねえ、そろそろ帰らなきゃ」
「ええ〜。そうなの?」
 彼女は、不服そうに眉をひそめる。そんな表情も可愛げがあった。

「だって、もう、8時だよ」
「う〜ん……。じゃあね、お腹すいたから、何か食べてから、帰ろ」
 ちょっと語尾をあげつつ、彼女が言う。なんだか、断れない。
「わかった、近くのマックでいい?」
 啓が言うと、彼女はにっこり笑って頷いた。



 ゲームセンターを出て、二人で歩く。今度は、彼女が啓を無理矢理引っ張っていく事はなかった。
 雪がちらほら降ってきた。しかし、積もる程ではないだろう。

「きゃっ」
 突然、彼女が短い悲鳴をあげ、啓の視界から消える。

 彼女は、薄氷に滑ったらしく、地面に座り込んでいた。
「もう、やだぁ〜」
「大丈夫?」

 啓は、彼女の右肘のあたりを掴み、立ち上がるのを助ける。二人の距離が近い。
 いいかな。いいよな。

 啓の中で、わずかな葛藤があった。すぐに、「いいかな」より「いいよな」が勝った。

 彼女が立ち上がったあと、啓は、ゆっくり、彼女の唇に自分のそれを近づけ……。

 ひゅん、と、彼女の右手が飛んでくるのが、見えた。
 啓が咄嗟に身を引いた為、彼女の爪だけが、啓の頬をひっかいた。しかし、その反動で、啓はすっ転ぶ。

「いてて……」
 確かに、そりゃいきなりだった。早まったかもしれない。でも、そうしたくなってしまったものは、仕方ないじゃないか。

 そう思いつつ、啓は立ち上がる。そして……
「あ、れ……?」

 周りを見渡した時には、もう誰もいなかった。

 どこに行ってしまったんだろう。疑問に思いつつ、啓はコートについた雪を払った。
 その時、何かが、ちくりと、指を刺した。それはコートにくっついているようだ。
「なんだろ、これ」

 街灯の下で、よく見てみると、小さな、白い、鉤状の物。
「猫の、爪だ」
 頭上には、それと同じ形状の月が、煌々と輝いていた。



  END

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